ルカの福音書11章1節~4節
先週は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄っておられたベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリアの家でのこと、主を喜んで家に迎え入れたマルタが扱われたところに注目した。
ⅰ もてなしも聖書の勧めるところではあっても、このマルタの在り方が見直されない限り、その奉仕は無意味・無価値と。
コリント人への手紙 第一 13章1~7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません・・・」とある。
もてなすマルタの心は、40節で、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ惨めさが !! マリアに抱いた妬みは、彼女の喜びを奪おうとする憎むべき性質。もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかない奉仕は、受け入れられるものではない !!
ⅱ 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の奉仕が生まれると。
マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろそのマリアこそ、間もなく迎える、「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いだ人物。
真の黙想を知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われている、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出し、主の十二弟子すら及ばなかった、十字架の葬りの日の備えをさせた。
※ この意味において、互いの信仰生活にも「必要なことは一つだけです」の意を知って主にお仕えしたい、と。
今朝は、主が、11章1節d 「・・・私たちにも祈りを教えてください。」と願い出た弟子たちを指導された 《 祈り 》 に学びたい。
私たちが現在、『 主の祈り 』 として捧げている祈りである。
このように弟子が主に「教えてください」と願い出て来たこの時は、主と生活を共にして来た最後の最後、十字架の日に向けてのエルサレム行き最後の旅でのことだった。
弟子たちはこれまで祈ることをしなかった人たちではなかっただろう。ユダヤ人には祈りの習慣があり、祈りのない生活は考えられない。ところが、彼ら自身に祈る生活があったが、1節a 「イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると」が暗示しているように、普段から目撃して来ている彼らの目に映る 《 祈られる主 》 には、自分たちの知らない祈りの世界があるに違いないと感じたからではないだろうか ?
1節c 「ヨハネが弟子たちに教えたように」とあるが、主は、彼の様にはこれまで、教える形を取られなかったことになる。
主は、マタイの福音書 13章52節で、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」と言っておられるが、弟子たちを身近に置いて、聖書的知識の教育を施されたことが分かる。このことから、聖霊に満たされてからというもの、ローマ帝国を相手に、堂々と旧約聖書を引用して説教したのも理解出来る。
ところが祈りは、単なる教えによるものではないからだ。主は、彼らに霊的渇きが起きるのを待っておられたのだ !!
罪の赦しは赦されたいとの渇きが、罪性の清めは清められたいとの渇きがあって初めて経験する。霊的経験は皆そうである。
主が、ヘルモン山から下山された時のことに触れておきたい。マルコの福音書 9章15節 詳訳 「群衆は皆、イエス【が、まだ顔と姿が輝いたままで、聖なる山から戻って来られるの】を見て、非常に驚き、すぐ駆け寄って、そして挨拶した」とある。
それは聖父からの直接的な語りかけに与られたからであるが、その時の輝きは、その時だけの現象ではなく、主が祈られた時に醸し出しておられた常の姿だったからなのだ。
主が弟子たちを指導された祈りに注目したい。
① 先ず、2節 《 主ご自身を考えるべきこと 》 を。
a. 祈る時、神を「父よ」と呼ぶようにと教えられた。
最早、近付き難いお方としてではなく、主が「父よ」と呼ばれたのに等しく。本来、神を父とお呼び出来る関係にはなかったのが弟子たち、私たちであるが、今は、ローマ人への手紙 5章10節 「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいた」身であり、主の十字架の犠牲によって神とは子の関係に回復したからである。聖書が啓示する 《 父のイメージ 》 は、15章11節~【家出した放蕩息子の帰りを待って抱き抱える父】、マタイの福音書 6章32節【子の必要を知っている父】、へブル人への手紙 12章10節【子の益をのみ考える父】であり、罪に対しては厳格ではあるが、赦しの父でいて下さる。
b. その父が「聖なるものとされますように」とは、崇められるようにである。神が礼拝【感謝】されるべきこと。
c. 「御国が来ますように」と。御国とは、神の御心【聖、愛、義、あわれみ、まこと】が支配する日が迎えられるようにと。
② 3、4節 《 私たちは悉( ことごと )く神に依存している者との告白 》 を。
a. 肉体的生活の必要において。
仮に自ら働いて糧を得る力があったとしても思い上がらず、或いは、何らかの理由で糧が得られず、苦境に立たされているとしても呟( つぶや )かずに、自らの必要の一切は神の手に掛かっているとの、信頼と謙虚さの告白の祈りである。
b. 霊的生活の必要において。
罪を犯す可能性を持つ者との謙虚さ、その弱さの十分な自覚から出て来る祈り。コリント人への手紙 第一 10章12節 詳訳 「自分は動揺しない心を持っており、堅く立っていると確信している者は、罪に陥( おちい )らないように気をつけなさい」とある。
③ 4節 《 隣人との健全な関係の告白 》 を。
主は 《 自らの罪に関しての謙虚な祈りを勧めて後 》、私たちの陥りやすい過ちを指摘するかのように、抜かりなく、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」と祈るよう勧められた。神に 《 罪の赦しと罪を犯すことからの助けを 》 求めるのであれば、隣人から被る悪しき言動がどれ程のものであれ、当然赦すべきだとの自覚で祈るようにと。
何故なら、マタイの福音書 18章21、22節 ⇒ 32、33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」とあるからである。
※ 主がご指導された 《 主の祈り 》 は、祈りの基本姿勢であるとして、自らの祈りの生活を吟味して祈りの生活に成長を。
先週は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄っておられたベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリアの家でのこと、主を喜んで家に迎え入れたマルタが扱われたところに注目した。
ⅰ もてなしも聖書の勧めるところではあっても、このマルタの在り方が見直されない限り、その奉仕は無意味・無価値と。
コリント人への手紙 第一 13章1~7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません・・・」とある。
もてなすマルタの心は、40節で、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ惨めさが !! マリアに抱いた妬みは、彼女の喜びを奪おうとする憎むべき性質。もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかない奉仕は、受け入れられるものではない !!
ⅱ 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の奉仕が生まれると。
マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろそのマリアこそ、間もなく迎える、「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いだ人物。
真の黙想を知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われている、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出し、主の十二弟子すら及ばなかった、十字架の葬りの日の備えをさせた。
※ この意味において、互いの信仰生活にも「必要なことは一つだけです」の意を知って主にお仕えしたい、と。
今朝は、主が、11章1節d 「・・・私たちにも祈りを教えてください。」と願い出た弟子たちを指導された 《 祈り 》 に学びたい。
私たちが現在、『 主の祈り 』 として捧げている祈りである。
このように弟子が主に「教えてください」と願い出て来たこの時は、主と生活を共にして来た最後の最後、十字架の日に向けてのエルサレム行き最後の旅でのことだった。
弟子たちはこれまで祈ることをしなかった人たちではなかっただろう。ユダヤ人には祈りの習慣があり、祈りのない生活は考えられない。ところが、彼ら自身に祈る生活があったが、1節a 「イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると」が暗示しているように、普段から目撃して来ている彼らの目に映る 《 祈られる主 》 には、自分たちの知らない祈りの世界があるに違いないと感じたからではないだろうか ?
1節c 「ヨハネが弟子たちに教えたように」とあるが、主は、彼の様にはこれまで、教える形を取られなかったことになる。
主は、マタイの福音書 13章52節で、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」と言っておられるが、弟子たちを身近に置いて、聖書的知識の教育を施されたことが分かる。このことから、聖霊に満たされてからというもの、ローマ帝国を相手に、堂々と旧約聖書を引用して説教したのも理解出来る。
ところが祈りは、単なる教えによるものではないからだ。主は、彼らに霊的渇きが起きるのを待っておられたのだ !!
罪の赦しは赦されたいとの渇きが、罪性の清めは清められたいとの渇きがあって初めて経験する。霊的経験は皆そうである。
主が、ヘルモン山から下山された時のことに触れておきたい。マルコの福音書 9章15節 詳訳 「群衆は皆、イエス【が、まだ顔と姿が輝いたままで、聖なる山から戻って来られるの】を見て、非常に驚き、すぐ駆け寄って、そして挨拶した」とある。
それは聖父からの直接的な語りかけに与られたからであるが、その時の輝きは、その時だけの現象ではなく、主が祈られた時に醸し出しておられた常の姿だったからなのだ。
主が弟子たちを指導された祈りに注目したい。
① 先ず、2節 《 主ご自身を考えるべきこと 》 を。
a. 祈る時、神を「父よ」と呼ぶようにと教えられた。
最早、近付き難いお方としてではなく、主が「父よ」と呼ばれたのに等しく。本来、神を父とお呼び出来る関係にはなかったのが弟子たち、私たちであるが、今は、ローマ人への手紙 5章10節 「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいた」身であり、主の十字架の犠牲によって神とは子の関係に回復したからである。聖書が啓示する 《 父のイメージ 》 は、15章11節~【家出した放蕩息子の帰りを待って抱き抱える父】、マタイの福音書 6章32節【子の必要を知っている父】、へブル人への手紙 12章10節【子の益をのみ考える父】であり、罪に対しては厳格ではあるが、赦しの父でいて下さる。
b. その父が「聖なるものとされますように」とは、崇められるようにである。神が礼拝【感謝】されるべきこと。
c. 「御国が来ますように」と。御国とは、神の御心【聖、愛、義、あわれみ、まこと】が支配する日が迎えられるようにと。
② 3、4節 《 私たちは悉( ことごと )く神に依存している者との告白 》 を。
a. 肉体的生活の必要において。
仮に自ら働いて糧を得る力があったとしても思い上がらず、或いは、何らかの理由で糧が得られず、苦境に立たされているとしても呟( つぶや )かずに、自らの必要の一切は神の手に掛かっているとの、信頼と謙虚さの告白の祈りである。
b. 霊的生活の必要において。
罪を犯す可能性を持つ者との謙虚さ、その弱さの十分な自覚から出て来る祈り。コリント人への手紙 第一 10章12節 詳訳 「自分は動揺しない心を持っており、堅く立っていると確信している者は、罪に陥( おちい )らないように気をつけなさい」とある。
③ 4節 《 隣人との健全な関係の告白 》 を。
主は 《 自らの罪に関しての謙虚な祈りを勧めて後 》、私たちの陥りやすい過ちを指摘するかのように、抜かりなく、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」と祈るよう勧められた。神に 《 罪の赦しと罪を犯すことからの助けを 》 求めるのであれば、隣人から被る悪しき言動がどれ程のものであれ、当然赦すべきだとの自覚で祈るようにと。
何故なら、マタイの福音書 18章21、22節 ⇒ 32、33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。」とあるからである。
※ 主がご指導された 《 主の祈り 》 は、祈りの基本姿勢であるとして、自らの祈りの生活を吟味して祈りの生活に成長を。
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