ルカの福音書10章38節~42節
先週は、《 良きサマリア人のたとえ話 》 として良く知られている物語から、主が ※ 25節に登場する「律法の専門家」を扱うことになったことから 《 永遠のいのちを受け継ぐ人々とは、どの様な人なのか 》 を考えて、自らの信仰を吟味した。
ⅰ 模範解答が出来る人ではなく、問題は 《 答えた所に、生きているかどうか 》 にある。
主が、彼の質問を受けて返された ※ 26節の質問に、彼は27節で模範解答をした。しかし主は、 “ あなたの答えは非の打ち所がない。但し、模範解答が出せたとしても、もし、そこに生きているのでなければ、知識だけでは無意味 ” と。
ⅱ 但し、そこに生きているとの生活の裏付けが重要だとしても、 “ しています ” と答えられる事にあるのでも、ない。
彼は強気で出て ※ 30~36節の、36節 「だれが」 ? にも、やはり37節で正解を述べる。が、主の洞察は ※ 37節b’ ・・・だった。
ⅲ この良きサマリア人は主ご自身であって、 “ 私たちは出来ておりません ” と認めて謙り、その生き方に渇くのみ。
半死半生人のすぐそばを通った時、33節 「見てかわいそうに思」うかも知れない。しかしこの「サマリア人」にあった実際的行動は ? この人は民族的に蔑視されている人 !! しかし彼は、34、35節で為し得る限りの惜しみない献身( 時間的・財的消費、行き届いた配慮 )を !! 生来の私たちは、30~32節の 《 強盗、無関心の祭司とレビ人 》。ローマ人への手紙 5章6~8節が証している。
※ 27節が鍵 !! 罪人を愛する主の愛を知って初めて与えられる愛の注ぎだけが、「隣人を愛する」者とする。厳密に自らを省みて、主の如く生きる者でありたい、と。
今朝は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄られることがおありだったベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリア、その兄弟ラザロとの三人で 『 ヨハネの福音書 』 に名が出て来ている家でのこと。実際、家に喜び迎えたマルタにとっては思い掛けない出来事となったが、主がマルタを扱われたところに注目したい。
マルタが扱われることになったのは ?
人間的には、マルタに同情をすら感じて読むことがあったかも知れない。何故ならば、主を迎え入れるや、歓迎の意を表そうと心を砕いているのだから。確かに 《 もてなし 》 は、聖書が勧めている行為である ⇒ 「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 ローマ人への手紙 12章13節」。
ところが、もてなしているマルタの様子を見てみると、何と悲しいことが・・・ !! 主を感情的に訴えて出て来たのだ。
10章40節。「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『 主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。 』 」だった。
確かにもてなすことは褒められるべきことであり、是非とも、心を用いる者でありたいと、願うところではある。
しかし主は、そのマルタに同情を寄せるのではなく、彼女が訴えたマリアを弁護された。41、42節 「主は答えられた。『 マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩( わずら )って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。 』 」と。マルタには忠告だったのだ !!
主がマルタを諭された、「必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました」に注目したい。
マリアが選んだ良い方とは、39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」ことであり、主はマリアが選択したこの在り方こそ、私たちが必要としていることで、これ以外のことは 《 全て、二の次三の次・・・ 》 との意。
その理由 :
① もてなしも必要ではあるが、このマリアの在り方を差し置いて為されても、無意味・無価値だから。
コリント人への手紙 第一 13章1~7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は・・・」とあるように。愛の性質について、十五、挙げられているが、その中心は「自分の利益を求めない」にある。
もてなすマルタの心はどうだったか ? と見るならば、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ、惨めさが。折角主の為にとの思いから始めた筈のもてなしも、40節 「私だけにもてなしをさせているのを・・・」と言うことになろうとは !! マルタの心から出て来た 《 マリアへの妬み 》 は、憎むべき肉の性質である。マリアの喜びを奪おうとするのだから。もてなしは自発的なものではなかったのか ? 主が役割分担して、マルタに割り当てた奉仕ではない。マリアを羨( うらや )ましく思うのであれば、一緒に座れば良かった。しかし、もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかなく、喜んでではない !!
② 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の行動が生まれるから。
マルタを実践型、マリアを黙想型と評して、クリスチャンは両方のタイプを兼ね備えるべきだと言われる傾向があるが、単純に二つのタイプとして考えるべきではない。
主は、マルタの実践そのものを評価してはおられない。
彼女の行動それ自体を評価するどころか、むしろ、彼女がもてなしながらも ※ 41節 「いろいろなことを思い煩って、心を乱してい」ると、心を問題にされ、そこからの奉仕を戒められたのだから。マルタが、「主のことばに聞き入っていた」マリアから、その選択を破棄させ、自分のもてなしに引き抜こうとする態度を戒められたのだから。
又、マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろ、そのマリアこそ、間もなく迎える「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いで記念された人物。
真の黙想の何なるかを知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われているように、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出すのだから。
マリアは、主の十二弟子すら主の葬りの日に備えることが出来なかったことをした。
※ この意味において、互いの信仰生活にも、「必要なことは一つだけです」の意を知る者として、主にお仕えしたい。
先週は、《 良きサマリア人のたとえ話 》 として良く知られている物語から、主が ※ 25節に登場する「律法の専門家」を扱うことになったことから 《 永遠のいのちを受け継ぐ人々とは、どの様な人なのか 》 を考えて、自らの信仰を吟味した。
ⅰ 模範解答が出来る人ではなく、問題は 《 答えた所に、生きているかどうか 》 にある。
主が、彼の質問を受けて返された ※ 26節の質問に、彼は27節で模範解答をした。しかし主は、 “ あなたの答えは非の打ち所がない。但し、模範解答が出せたとしても、もし、そこに生きているのでなければ、知識だけでは無意味 ” と。
ⅱ 但し、そこに生きているとの生活の裏付けが重要だとしても、 “ しています ” と答えられる事にあるのでも、ない。
彼は強気で出て ※ 30~36節の、36節 「だれが」 ? にも、やはり37節で正解を述べる。が、主の洞察は ※ 37節b’ ・・・だった。
ⅲ この良きサマリア人は主ご自身であって、 “ 私たちは出来ておりません ” と認めて謙り、その生き方に渇くのみ。
半死半生人のすぐそばを通った時、33節 「見てかわいそうに思」うかも知れない。しかしこの「サマリア人」にあった実際的行動は ? この人は民族的に蔑視されている人 !! しかし彼は、34、35節で為し得る限りの惜しみない献身( 時間的・財的消費、行き届いた配慮 )を !! 生来の私たちは、30~32節の 《 強盗、無関心の祭司とレビ人 》。ローマ人への手紙 5章6~8節が証している。
※ 27節が鍵 !! 罪人を愛する主の愛を知って初めて与えられる愛の注ぎだけが、「隣人を愛する」者とする。厳密に自らを省みて、主の如く生きる者でありたい、と。
今朝は、主がしばしば伝道旅行の合間に立ち寄られることがおありだったベタニアの村の二人姉妹、マルタとマリア、その兄弟ラザロとの三人で 『 ヨハネの福音書 』 に名が出て来ている家でのこと。実際、家に喜び迎えたマルタにとっては思い掛けない出来事となったが、主がマルタを扱われたところに注目したい。
マルタが扱われることになったのは ?
人間的には、マルタに同情をすら感じて読むことがあったかも知れない。何故ならば、主を迎え入れるや、歓迎の意を表そうと心を砕いているのだから。確かに 《 もてなし 》 は、聖書が勧めている行為である ⇒ 「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 ローマ人への手紙 12章13節」。
ところが、もてなしているマルタの様子を見てみると、何と悲しいことが・・・ !! 主を感情的に訴えて出て来たのだ。
10章40節。「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『 主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。 』 」だった。
確かにもてなすことは褒められるべきことであり、是非とも、心を用いる者でありたいと、願うところではある。
しかし主は、そのマルタに同情を寄せるのではなく、彼女が訴えたマリアを弁護された。41、42節 「主は答えられた。『 マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩( わずら )って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。 』 」と。マルタには忠告だったのだ !!
主がマルタを諭された、「必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました」に注目したい。
マリアが選んだ良い方とは、39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」ことであり、主はマリアが選択したこの在り方こそ、私たちが必要としていることで、これ以外のことは 《 全て、二の次三の次・・・ 》 との意。
その理由 :
① もてなしも必要ではあるが、このマリアの在り方を差し置いて為されても、無意味・無価値だから。
コリント人への手紙 第一 13章1~7節 「たとえ私が・・・与えても、・・・愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は・・・」とあるように。愛の性質について、十五、挙げられているが、その中心は「自分の利益を求めない」にある。
もてなすマルタの心はどうだったか ? と見るならば、みことばに聞き入るマリアに苛立ち、マリアに話しておられる主にも苛立つ、惨めさが。折角主の為にとの思いから始めた筈のもてなしも、40節 「私だけにもてなしをさせているのを・・・」と言うことになろうとは !! マルタの心から出て来た 《 マリアへの妬み 》 は、憎むべき肉の性質である。マリアの喜びを奪おうとするのだから。もてなしは自発的なものではなかったのか ? 主が役割分担して、マルタに割り当てた奉仕ではない。マリアを羨( うらや )ましく思うのであれば、一緒に座れば良かった。しかし、もてなさなければ失礼 ? との、単なる義務感によるものでしかなく、喜んでではない !!
② 39節 「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る霊的営みからだけ、主に評価される真の行動が生まれるから。
マルタを実践型、マリアを黙想型と評して、クリスチャンは両方のタイプを兼ね備えるべきだと言われる傾向があるが、単純に二つのタイプとして考えるべきではない。
主は、マルタの実践そのものを評価してはおられない。
彼女の行動それ自体を評価するどころか、むしろ、彼女がもてなしながらも ※ 41節 「いろいろなことを思い煩って、心を乱してい」ると、心を問題にされ、そこからの奉仕を戒められたのだから。マルタが、「主のことばに聞き入っていた」マリアから、その選択を破棄させ、自分のもてなしに引き抜こうとする態度を戒められたのだから。
又、マリアは唯、黙想ばかりしていた器ではなかった。
むしろ、そのマリアこそ、間もなく迎える「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。 ヨハネの福音書 12章7節」と、主の御足にナルドの香油を注いで記念された人物。
真の黙想の何なるかを知る器こそ、時宜を得た行動に出るようにされるのだから。42節 「必要なことは一つだけ」と言われているように、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入」る姿勢こそ、真の実践的行動を生み出すのだから。
マリアは、主の十二弟子すら主の葬りの日に備えることが出来なかったことをした。
※ この意味において、互いの信仰生活にも、「必要なことは一つだけです」の意を知る者として、主にお仕えしたい。
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