聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 50


ルカの福音書10章25節~37節

先週は、※ 17節、伝道の成果を喜び勇んで報告して来た七十二人への主のお応えから、何事かを主の働きの実として経験させて頂いた時の心得るべき姿勢を学んだ。

ⅰ 先ず主は、彼らの ※ 17節 「悪霊どもでさえ私たちに服従します。」との成果に耳を傾け、18節で勝利したと証された。
弟子たちの報告を受けられた主には、一方( ひとかた )ならず喜びと安堵感がおありだったに違いないのだ。

ⅱ とは言え、そこで主は終わりになさらず、緊張感をもって忠告され、20節で釘を刺された。それは・・・
a. 消極的 : 17節b’ 「私たちに服従します。」に潜んでいる霊的高慢さの可能性・危険性・その弱さを警戒すべきだから。
19節で、主は穏やかに 《 授けられた権威の故の結果だったと 》 諭され、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく」と仰った。
b. 積極的 : 20節 「あなたがたの名が天に書き記されている」事実こそ究極の喜び、人がこの地上で経験し得る経験の中で、至高の、最も栄誉ある喜びなのだからと。
21節 「ちょうどその時」と、その感動の迸( ほとばし )りが、主を聖父への感謝の祈りに押し出した !! 十字架への道を歩まれる主の関心は、唯、私たち罪人の救いのことだけ。
24節で旧約の人々が見たいと願っていた救い主を 《 あなたがたは、今見て知っている 》 と、驚くべき特権であるとの事実を明確にされた ⇒ ペテロの手紙 第一 1章3~16節。

※ 20節 「・・・を喜ぶのではなく、・・・を喜びなさい」との問い掛けは、私たちにおいては ? 救いを喜ぶ信仰を !! と。


今朝は 《 良きサマリヤ人のたとえ話 》 として良く知られている物語から、主が ※ 25節に登場する「律法の専門家」を扱われた出来事を学び、自らの信仰の在り方を吟味したい。
25節 詳訳 「その時( 別訳 : ちょうどその時 )、ひとりの学者が立ち上がり、イエスを試みよう( ためし、誘惑しよう )として言った」とある。どのような場面でのことか定かではないが、彼は 《 伝道から帰って来た七十二人の報告を受けた主が、弟子たちを指導している所に 》 居合わせたと考えられる。
23節には敢えて、「弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた」とあることからも推測できるし、21節の主が聖父に、「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と祈られた祈りには、主を試そうとしてやって来る律法の専門家たちの存在が意識されていると考えられる。
主は、この律法の専門家こそ「知恵ある者、賢い者」だとして、正面から彼をも扱い、目が開かれるようにと心を砕かれたのだ。主はエゼキエルに、「彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。 エゼキエル書 2章7節」と言われたお方だから、専門家が「聞く聞かない」は問題になさらずに、扱われたのである。
私たちが隣人に証しようとする時、相手の反応を恐れる余り顔色を窺( うかが )い、真理を伝え損ねる傾向があるのでは ?
彼らの「イエスを試みよう、誘惑しよう」とは、弟子たちを召し抱えているイエスという者が、何者かを調べて真価を知ろう !! もしかして何らかの非を暴いて辱( はずかし )められれば ? と。

さて、律法の専門家は「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことから 《 永遠のいのちを受け継ぐ人々とは、どの様な人なのか 》 を、28節 「イエスは言われた。『 あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。 』 」から考えたい。

① 模範解答が出来る人ではなく、問題は 《 答えた所に、生きているかどうか 》 にある。

主が、彼の問い( ※ 25節 )を受けて、26節 「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と尋ねられた時、律法の専門家は、27節で模範解答をした。
主が、マタイの福音書 22章36~40節で答えておられること。
しかし主は、 “ あなたの答えは非の打ち所がない。但し、模範解答が出せたとしても、もし、そこに生きているのでなければ、知識だけでは無意味。知識があなたにいのちをもたらすのではないから。あなたに必要なことは、生活によって裏付けられる証だ ” と言われた。コリント人への手紙 第一 8章1節 「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」。

② 但し 《 正しく解答した所に生きているとの生活の裏付けが重要だとしても 》  “ はい、実践しています ” と答えられる事にあるのでもない。

何と彼は、29節 「自分が正しいことを示そう【詳訳 : 非難を逃れよう/現代訳 : 自分が如何にそれを実行しているかを示そう/新共同訳 : 正当化しよう】として」、主に、「では、私の隣人とはだれですか。」と、恥ずかしげもなく尋ねる !!
彼は、 “ あなたがこの人々だと言えば、私は出来ていますとも。どうぞ言ってみて下さい ” と、強気で出ているが、何とも惨めな無知を曝( さら )け出しているに過ぎない。
彼は本当に出来ているのだろうか ? 彼は、30~35節でたとえ話をされた主から、36節 「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と尋ねられて、やはりここでも、37節 「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と正解を述べる。ところが主の洞察は、同節b’ 「あなたも行って、同じようにしなさい。」と、 《 出来ていない 》 彼の現実を暴かれたのだから。

③ この良きサマリヤ人は主ご自身であって、 “ 私たちは出来ておりません ” と認めて謙り、その生き方に渇くのみ。

半死半生人のそばを通った時、33節 「かわいそうに思」うかも知れない。しかしこの「サマリヤ人」の実際的行動は ? この人は民族的に蔑視されている人 !! しかし彼は、34、35節で為し得る限りの惜しみない献身( 時間的・財的消費、行き届いた配慮 )を !! 生来の私たちは、30~32節の 《 強盗、無関心の祭司とレビ人 》。出来ていると思うなら、自らを知らないとして自戒を。ローマ人への手紙 5章6~8節 「善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません」・・・が、その事実を語る。

※ 27節が鍵 !! 罪人を愛する主の愛を知って初めて与えられる愛の注ぎだけが、「隣人を愛する」者とする。厳密に自らを省みて、主の如く生きる者でありたい。

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