聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 49


ルカの福音書10章17節~24節

先週は、十二弟子派遣に次ぐ、エルサレム行き最後の旅での七十二人派遣の際、主が2~12節の重要な指示を与えられて後、13節 「ああ」と嘆かれた御思いに学んだ。

ⅰ 主の嘆きは ?
主が嘆かれた町 《 コラジン、ベツサイダ、15節のカぺナウム 》 は、主が宣教の拠点を置かれたガリラヤ地方の町々で、主の働きを身近で見て光栄に与り( イザヤ書 9章1節 )、主との密着した生活の許された人々なのだ。
13節で、「おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら」との言及があるが、エゼキエル書 28章2~23節で神から糾弾されている町々が !! である。
そこに、ガリラヤ地方の人々の頑( かたく )なさの程が伺える。
見ながら神に立ち返らない。見たら信じると人々はよく言うが、《 信じる 》 とは、見る見ないの問題ではなく、己を神の座に居座らせたいという傲慢さの問題、それだけのこと。

ⅱ その彼らには究極、16節 「わたしを遣わされた方を拒む」故の厳粛な裁きがあるのみ、ここに主の嘆きが。 
私たちがこの事実を知っているならば、主が迫害者サウロに、「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」と、彼の永遠の滅びを惜しみつつ迫られたことに同意できる。
14、15節は、彼らへの永遠の刑罰の予告だから。
主のように、拒む者の滅びとその厳粛さを思って嘆き、そこからの救いのみに心を砕く者であるのか、自問自答を。

※ 主の御思いに与りつつ、魂の救いを担っての今日を !! と。


今朝は、17節 「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」と、伝道の成果を喜び勇んで報告して来た七十二人に、主が愛を込めて語られたおことばに注目し、何事かを主の働きの実として経験させて頂いた時、心得るべき姿勢を学びたい。

① 先ず主は、彼らが ※ 17節で、「悪霊どもでさえ私たちに服従します。」と言った成果に耳を傾けて、18節 「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました」と仰り、あなたがたは確かに、サタンに勝利したと証された。

即ち、主は、ご自身の名を用いた働きには見事な結果が伴い、あなたがたの働きの前にサタンは屈したというのは事実だと激励された。主は、やがて黙示録 12章7~9節で預言される 《 サタンの敗北の前触れ 》 だと認められた。
霊の働きには抜け目なく挑戦するサタンの存在を常時、意識される主にとっての喜びである。
使徒パウロも、エペソ人への手紙 6章11、12節 「・・・私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言っている。
私たちの相手は人ではなく、実在するサタンであり、使徒パウロによる、コリント人への手紙 第二 2章10、11節 「・・・サタンに乗じられないようにするためです・・・」には留意すべきなのだ。
そのような訳で、弟子たちの報告を受けられた主には、一方( ひとかた )ならず、喜びと安堵感がおありだったに違いないのだ。

② とは言え、そこで主は終わりになさらず、緊張感をもって忠告されたのが、20節 「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」である。

弟子たちが悪霊を追い出せたことは、実に素晴らしく、喜ばしいことではあったが、あなたがたが喜びとするところはそこではないと、釘を刺された。それは・・・
a. 消極的 : 17節b’ 「私たちに服従します。」に潜んでいる霊的高慢さの可能性・危険性・その弱さを警戒すべきだから。
まるで自分が何者かであるかのような錯覚に陥り易い。
主は彼らの報告を聞かれるや、19節 「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました」と、この事実の故に、霊的闘いの困難な伝道の働きに在っても、「あなたがたに害を加えるものは何一つ」なく勝利した。主は穏やかに 《 授けられた権威の故の結果だったと 》 諭す必要を覚えられたのだ。
ですから主は、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく」と仰ったのだ。
b. 積極的 : 20節 「あなたがたの名が天に書き記されている」事実こそ究極の喜び、人がこの地上で経験し得る経験の中で、至高の経験で、最も栄誉ある喜びなのだからと。
ここで注目したい。主が弟子たちの「名が天に書き記されていることを喜びなさい」と仰った、21節 「ちょうどそのとき、聖霊によって喜びにあふれて言われた」とは !!

感極まって突如聖父に祈られた主に、私たちは何を思う ? 感動の迸( ほとばし )りが、主を聖父への感謝の祈りに押し出した !!
十字架への道を歩んでおられる主の御思い、主の関心は、唯、私たち罪人の救いのことだけ。
主の地上での喜び、躍り上がらんばかりの喜びは、私たちの救いを喜ぶ喜びであり、実に、ローマ人への手紙 15章3節 「ご自分を喜ばせることはなさいませんでした」とあるお方は、私たちの救いがご自身の喜びだった !!
主は、「喜びにあふれて」感動しつつ、弟子たちが福音に与るに相応しく、21節 「幼子( おさなご )」であることを喜ばれた !!
更に、23節 「弟子たちの方を振り向いて・・・ 『 あなたがたが見ているものを見ている目は幸いです 』 」と、24節で旧約の人々が見たいと願っていた救い主を 《 あなたがたは、今見て知っている 》 と、驚くべき特権であるとの事実を明確にされた。
ペテロは主のこの感動を経験し、主のそのお心のままを、ペテロの手紙 第一 1章3~16節で語っている。特に、6節 「あなたがたは大いに喜んでいます」、8、9節 「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」、10節 「この救いについては・・・」と、旧約時代の預言者たちの如何に憧れであったか、そこに言及している。

※ 20節 「・・・を喜ぶのではなく、・・・を喜びなさい」と、彼らの霊的・内的状態に光を当てられた主の問い掛けは、私たちにおいては不必要だろうか ? 吟味しつつ、救いを喜ぶ信仰を !!

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