聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 48


ルカの福音書10章1節~16節

先週は、主がエルサレムに向かう旅の始まりで出会った弟子志願者とのやり取りから 《 弟子として従う心得 》 を学んだ。

ⅰ 57節の「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでも・・・」に着目し、58節 「・・・人の子には枕する所もありません。」と仰って、彼を扱われたことで。
“ あなたの献身的熱意は結構だが、本当に従える自分なのか ? ” 「枕する所もない」とは、地上的な便利さ、快適さとは裏腹の意。人として最低限これ位はあっても当然とする権利を捨てて、そこに甘んじることの意であるが、それでも従いたいと本気で志願するのか !! と。

ⅱ 59節b'の「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」に着目し、60節で彼の召命に従うように指導されたことで。
主は 《 父を葬ること、老後を見届けること自体 》 を否定しておられるのではない。それは全て、召命の問題である。
唯、弟子として生きる時の心得は、今、私は、何をするよう導かれているのかとの召命の明確さが必要であると。

ⅲ 61節の「ただその前に」に着目して、62節 「だれでも、手を鋤( すき )につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と、優柔不断さの問題に触れられたことで。
従いたいが、彼をして従うことを躊躇させ、障害となる「家の者」の存在による情的な問題。
挨拶することを禁じられた訳ではない。従うよう導かれているにも拘らず、「ただその前に」と、彼に踏み止( とど )まるよう、後ろ髪を引かせている存在への人間的愛着の問題。

※ 主を主として崇めて従う弟子の生活を吟味したい、と。


今朝は、10章1節 「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」とあるが、9章1、2節で遣わされた「十二人」とは別に、エルサレム行きの最後のこの旅に従って来た人々七十二人を派遣される際、主が彼らに与えられた忠告に注目を。
主は幾つかの重要な指示を与えておられる。
( ⅰ ) 2、3節 「祈りなさい」から、「さあ、行きなさい」に、働き人の必要を祈る時、働き人となることは他人事ではない。祈りつつ、自らも又、主の収穫の為に重荷を持つべきこと。
( ⅱ ) 3節b 「狼の中に子羊を送り出すようなもの」と気遣って下さる御思いをしっかり自覚した信仰生活であるように。
( ⅲ ) 4節 「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい( 当時の生活様式、習慣などを理解する必要がある )」、5~11節とを考え合わせる時、信仰を学ぶべきとの示唆。
( ⅳ ) 4節b 「道でだれにもあいさつしてはいけません」には、時間の用い方に注意深く、人々が救いを求めている時代であるとの緊急性を弁( わきま )えるようにと。エペソ人への手紙 5章15~20節。
これら一つ一つの忠告をもって派遣された主が、13節 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう」と仰っておられるおことばに 《 主の魂を惜しんで嘆かれる御思い 》 を学んでメッセージとしたい。

① 主の嘆きは ?

主が嘆かれた町 《 コラジン、ベツサイダ、15節のカぺナウム 》 は、主が宣教の拠点を置かれたガリラヤ地方の町々で、主の働きを身近で見て光栄に与り( イザヤ書 9章1節f )、働きをなさる主ご自身とは、どの町の人々よりも密着した生活の許された人々なのだ。
ご受洗後、直ちに赴( おもむ )かれた町々だったことを思い出して頂きたい。4章14、15、31、42節、その後、顕著な出来事は、何と言っても9章10~17節、五つのパンと二匹の魚で男五千人を養われた奇跡がベツサイダでなされた。
13節で「おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら」との言及があるが、エゼキエル書 28章2~23節で神から糾弾されている町々が !! である。
そこに、ガリラヤ地方の人々の頑( かたく )なさの程が伺える。見ながら神に立ち返らない。見たら信じると人々はよく言うが、 《 信じる 》 とは、見る見ないの問題ではなく、神に立ち返らせないのは、己を神としていたいだけのこと。自我の城を神に明け渡そうとはしない傲慢さが問題。

② その厳粛さの究極は、16節 「わたしを遣わされた方を拒むのです。」にある。

人々が弟子を拒む時、弟子を派遣された主を拒み、その究極は主を派遣された聖父を拒むという事実にある。
私たちがこの事実を本当に知っている者であるならば、拒む者への態度を吟味する必要がありはしないだろうか ?
主が迫害者サウロをどの様に扱っただろうか。「なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」と言われたことを覚えたい( 使徒 26・14 )。サウロ、後のパウロは教会を迫害し、ステパノに抵抗し、彼を殉教死に追い遣った。主はパウロが教会を迫害した時、ご自身の体である教会が直面している暗黒を思われて 《 教会の痛みをご自身の痛みとし、教会と一体となり 》、その上でパウロの永遠の滅びを惜しみつつ「あなたには痛いことだ」と迫られた。
14節 「しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ」、15節 「カぺナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」という永遠の刑罰が待つのみだから。
私たちは誰かから「拒まれる」経験をしたことがあるだろうか ? もしあるとするならば、私たちの先ずの反応は ? 拒まれたことへの個人的( 自尊心を傷付けられたとか、理解されないとして自己を憐み )損失を痛み悲しむのだろうか ? 
それとも、主のように、拒む者の滅びとその厳粛さを思って嘆き、そこからの救いのみに心を砕く者であるのか ?
先週の夕拝では 《 エレミヤのすすり泣き 》 と言われる 『 哀歌 』 から学んだが、預言者は皆、神から託されたメッセージを伝えるその都度、彼らから迫害を余儀なくされるが、自分の為に泣く者ではなく、神への反逆による彼らの滅びを思って号泣する人々だった。

※ 主の御思いに与りつつ、魂の救いを担っての今日を !!

この記事へのコメント