ルカの福音書9章57節~62節
先週は、51節に、十字架の日が秒読みで近づいているとの意識を固められた主が、最後の数ヶ月の宣教の旅を始められたと見て、その初め、53節 「しかし・・・サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」と、断られたことからメッセージを。
ⅰ その理由は、53節a 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とある。
友好関係になかった町。宿の提供を求めたその目的に、とんでもない !! との腹立たしさが露骨に出たと考えられる。
ⅱ 弟子たちの反応は、54節 「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」だった。
欄外 ※ を見ると、正に、さながらエリヤ気取り。彼らの主を思う思いからではあるが、55節で主が彼らを戒められた以上、正義感からとは言え、肉的な怒り、報復の精神に基づくもの。同時に、同節欄外 ※ によると、自らの分を弁( わきま )えないとの主からの叱責が。驕( おご )りからくる霊的状態の無知を見る。
ⅲ 求めるべき態度は、弟子たちを叱責された主にある。
56節 欄外 ※ 「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」にある。
既に4章16~21節で、「きょう、聖書のこのみことばが・・・実現しました。」と語られた時、イザヤ書 61章2節a 「主の恵みの年」で閉じられ、2節a’ 「われわれの神の復讐の日を告げ」を読まれなかった主の心である。「主の恵みの年」とは、18節の福音に生きるご生涯、「神の復讐の日」とは、テサロニケ人への手紙 第二 2章8、12節 「来臨の輝きをもって滅ぼ」す日のこと。
※ 十字架への道に進まれる主に近く歩む者でありたい、と。
今朝は、主がエルサレムに向かう最後の旅の始まりで出会った弟子を志願する三人の人物とのやり取りで明らかにされた 《 主の弟子に求められる霊的資質について 》 学びたい。
主がここに出て来る三人に、“ 弟子として従うとは、どの様な生き方をもってなのか ? ” を明確に示されたことから学ぶ。
① 57節 「ある人がイエスに言った。『 私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます 』 」。
この人には、如何にも捨て身で献身的でさえある熱意が伺える。彼の目に映った主の【51節 リビングバイブル訳 : 鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれ】る姿に感動したからに違いない。彼の持ち前の犠牲的精神は刺激され、このようなお方に出会ったからには、生涯を投げ打って従って行こうとの意欲が掻き立てられた。
しかし主は、彼の「あなたのおいでになる所なら、どこにでも・・・」という思いに着目して、彼を試された。58節 「すると、イエスは彼に言われた。『 狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。 』 」である。
主は彼が【自分を】知るように仕向けられた。
“ あなたの献身的熱意は結構だが、本当に従える自分なのか ? 「どこにでも・・・」と言うが、わたしがいる所とは、どのような所であるのか知った上でのことなのか ? ” と。
その熱意に底にあるもの、何が彼を動かしているのか ?
富める若き司がそうであったように、皆自分を知らない( マタ 19・16~、ルカ 18・18~ )。
若き司は、「永遠のいのち」が欲しいと言って近づいて来たが、いざ、財産を貧しい人々に分け与えてからと言われた時、彼は初めて自分を知った。富に執着する心があって、それを捨てなければならない位なら結構 !! だった。
この事実を知った時、 “ その自分の現実を何とかして頂きたい。私は「永遠のいのち」が欲しいのです ” と言うのか !!
主の、この「枕する所もない」とは、地上的な便利さ、快適さとは裏腹の意。人として最低限これ位はあっても当然とする権利を捨てて、そこに甘んじることの意であるが、それでも従いたいと本気で志願するのか !!
彼に求められたことは、もし自分にその様な生き方が求められても、出来るかどうか分からなくても、 “ 従いたいので受け入れて頂きたい ” と言うのか !! である。もしその願いさえあるならば、訓練はそれからだから。
② 59節 「イエスは別の人に、こう言われた。『 わたしについて来なさい。 』 しかしその人は言った。『 まず行って、私の父を葬る【詳訳 : 父が亡くなるのを待つ】ことを許してください 』 」。
この人は、主の招きそのものを拒んだのではない。従う意志はあるが、 “ 今ということになると、それは出来ない。ちょっと待って頂きたい ” という姿勢。主がその彼に言われたことが、60節 「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広め・・・」だったとすれば、主は、彼の「まず行って」に着目されたのだ。
主は、 《 父を葬ること、老後を見届けること 》 を否定しておられるのではない。それは全て、召命の問題である。
テモテの手紙 第一 5章8節 「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」とある。唯、弟子として生きる時の心得は、今、私は、何をするように導かれているのかとの召命の明確さである。然( しか )るべき人に委ねて、私の召しは ? を明確にして従うという明け渡しの姿勢である。
為すべきことが何であるのかを知りながら、保留にする生き方、生活を戒めようとして、なのだ。
③ 61節 「別の人はこう言った。『 主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください 』 」。
主はここで、彼の「ただその前に」に着目された。彼は、二番目の人に似ているが、前者は 《 召命の問題 ⇒ あなたは私に従いなさい 》 であるが、この別の人の場合は、主の答え、62節 「だれでも、手を鋤( すき )につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」から見ると、優柔不断さの問題なのだ。従いたいが、彼をして従うことを躊躇させる、障害となる「家の者」の存在による情的な問題。
挨拶することを禁じられた訳ではない。従うよう導かれているにも拘らず、「ただその前に」と、彼をして言わせた、後ろ髪を引かせている存在への人間的愛着の問題。
※ 主を主として崇めて従う弟子の生活を吟味したい。
先週は、51節に、十字架の日が秒読みで近づいているとの意識を固められた主が、最後の数ヶ月の宣教の旅を始められたと見て、その初め、53節 「しかし・・・サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」と、断られたことからメッセージを。
ⅰ その理由は、53節a 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とある。
友好関係になかった町。宿の提供を求めたその目的に、とんでもない !! との腹立たしさが露骨に出たと考えられる。
ⅱ 弟子たちの反応は、54節 「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」だった。
欄外 ※ を見ると、正に、さながらエリヤ気取り。彼らの主を思う思いからではあるが、55節で主が彼らを戒められた以上、正義感からとは言え、肉的な怒り、報復の精神に基づくもの。同時に、同節欄外 ※ によると、自らの分を弁( わきま )えないとの主からの叱責が。驕( おご )りからくる霊的状態の無知を見る。
ⅲ 求めるべき態度は、弟子たちを叱責された主にある。
56節 欄外 ※ 「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」にある。
既に4章16~21節で、「きょう、聖書のこのみことばが・・・実現しました。」と語られた時、イザヤ書 61章2節a 「主の恵みの年」で閉じられ、2節a’ 「われわれの神の復讐の日を告げ」を読まれなかった主の心である。「主の恵みの年」とは、18節の福音に生きるご生涯、「神の復讐の日」とは、テサロニケ人への手紙 第二 2章8、12節 「来臨の輝きをもって滅ぼ」す日のこと。
※ 十字架への道に進まれる主に近く歩む者でありたい、と。
今朝は、主がエルサレムに向かう最後の旅の始まりで出会った弟子を志願する三人の人物とのやり取りで明らかにされた 《 主の弟子に求められる霊的資質について 》 学びたい。
主がここに出て来る三人に、“ 弟子として従うとは、どの様な生き方をもってなのか ? ” を明確に示されたことから学ぶ。
① 57節 「ある人がイエスに言った。『 私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます 』 」。
この人には、如何にも捨て身で献身的でさえある熱意が伺える。彼の目に映った主の【51節 リビングバイブル訳 : 鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれ】る姿に感動したからに違いない。彼の持ち前の犠牲的精神は刺激され、このようなお方に出会ったからには、生涯を投げ打って従って行こうとの意欲が掻き立てられた。
しかし主は、彼の「あなたのおいでになる所なら、どこにでも・・・」という思いに着目して、彼を試された。58節 「すると、イエスは彼に言われた。『 狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。 』 」である。
主は彼が【自分を】知るように仕向けられた。
“ あなたの献身的熱意は結構だが、本当に従える自分なのか ? 「どこにでも・・・」と言うが、わたしがいる所とは、どのような所であるのか知った上でのことなのか ? ” と。
その熱意に底にあるもの、何が彼を動かしているのか ?
富める若き司がそうであったように、皆自分を知らない( マタ 19・16~、ルカ 18・18~ )。
若き司は、「永遠のいのち」が欲しいと言って近づいて来たが、いざ、財産を貧しい人々に分け与えてからと言われた時、彼は初めて自分を知った。富に執着する心があって、それを捨てなければならない位なら結構 !! だった。
この事実を知った時、 “ その自分の現実を何とかして頂きたい。私は「永遠のいのち」が欲しいのです ” と言うのか !!
主の、この「枕する所もない」とは、地上的な便利さ、快適さとは裏腹の意。人として最低限これ位はあっても当然とする権利を捨てて、そこに甘んじることの意であるが、それでも従いたいと本気で志願するのか !!
彼に求められたことは、もし自分にその様な生き方が求められても、出来るかどうか分からなくても、 “ 従いたいので受け入れて頂きたい ” と言うのか !! である。もしその願いさえあるならば、訓練はそれからだから。
② 59節 「イエスは別の人に、こう言われた。『 わたしについて来なさい。 』 しかしその人は言った。『 まず行って、私の父を葬る【詳訳 : 父が亡くなるのを待つ】ことを許してください 』 」。
この人は、主の招きそのものを拒んだのではない。従う意志はあるが、 “ 今ということになると、それは出来ない。ちょっと待って頂きたい ” という姿勢。主がその彼に言われたことが、60節 「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広め・・・」だったとすれば、主は、彼の「まず行って」に着目されたのだ。
主は、 《 父を葬ること、老後を見届けること 》 を否定しておられるのではない。それは全て、召命の問題である。
テモテの手紙 第一 5章8節 「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」とある。唯、弟子として生きる時の心得は、今、私は、何をするように導かれているのかとの召命の明確さである。然( しか )るべき人に委ねて、私の召しは ? を明確にして従うという明け渡しの姿勢である。
為すべきことが何であるのかを知りながら、保留にする生き方、生活を戒めようとして、なのだ。
③ 61節 「別の人はこう言った。『 主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください 』 」。
主はここで、彼の「ただその前に」に着目された。彼は、二番目の人に似ているが、前者は 《 召命の問題 ⇒ あなたは私に従いなさい 》 であるが、この別の人の場合は、主の答え、62節 「だれでも、手を鋤( すき )につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」から見ると、優柔不断さの問題なのだ。従いたいが、彼をして従うことを躊躇させる、障害となる「家の者」の存在による情的な問題。
挨拶することを禁じられた訳ではない。従うよう導かれているにも拘らず、「ただその前に」と、彼をして言わせた、後ろ髪を引かせている存在への人間的愛着の問題。
※ 主を主として崇めて従う弟子の生活を吟味したい。
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