聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 46


ルカの福音書9章51節~56節

先週は、主が弟子たちの霊的問題を見逃さずに、その都度厳格に扱われるお方であることに注目した。

ⅰ 主が扱われた弟子たちの肉的性質は何だったのか ?
a. 46節 詳訳 「ところが、弟子たちの間に、彼らのうちで、誰が一番偉いか( 即ち、他の者よりも長所、価値、権威の点で抜きんでているか )ということで議論が起こった」に見る。
この「ところが・・・」は前節を受けて、そんな事はさて置き !! と、人との比較で、誰よりも上にとの傲慢( ごうまん )な罪深い思い。
b. 49節 「・・・仲間ではないので、やめさせた」に見る。
自分たちに出来なかったことでも彼らには結果が出たことへの嫉妬心が心の根にあってか、「仲間ではない」という理由を盾に、「やめさせ」るとは、何という大それた出方。
仲間意識が排他的になる時、最も大切な 《 愛の視点 ⇒ 主がどう思われるか 》 を失い、自分こそが一番正しいとして裁き、決して耳を貸さない態度を取ることで独善的になる。

ⅱ 主は何故、弟子たちの肉的性質を黙認せずに扱うのか ?
ガラテヤ人への手紙 5章17、21節c 《 聖霊とは対立関係 》 だから。

ⅲ 主のご性質こそ、私たちが渇いて求めるべき性質 !!
主は、48節 「一番小さい者( 謙遜な者 )が一番偉い」と言われた。弟子たちが軽視する者【子供に代表される、人間的標準で卑しめられている者】への接し方における愛の如何。
実に主の偉大さこそ、見下されるべき私たち罪人を愛し、命すら捨てて下さったご生涯に証されたと、覚えたい。

※ 肉の扱いには、当然痛みを覚えるが、見逃さずに扱われた主の厳格な姿勢を愛と覚え、お互いの求める所としたいと。


今朝からは、もう既に9章10節からの、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた奇蹟、弟子たちへのご受難の吐露、後のヘルモン山での姿変わりに始まった 《 主の後期伝道が、エルサレムに向かっていよいよ緊迫感を増していく 》 働きに注目することになります。
51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」と、ここからは十字架の日が秒読みで近づいて来ているとの意識を固めながらの数ヶ月の宣教の旅となる。
今朝は、ガリラヤ地方での働きに終止符を打たれて【A.D.29年】、いよいよエルサレム行きの初めの場面でのことになる。52節 「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した【受け入れてもらえなかった】」場面。今日の注目はここであるが、その後の道程を展望しておきたい。
10章38節 「さて、彼らが旅を続けているうち、・・・ある村にはいられると」とあるのはベタニヤのことで、ベタニヤに立ち寄られてから ⇒ 13章22節 「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」 ⇒ 18章31節 「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『 さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます・・・ 』 」、35節 「イエスがエリコに近づかれたころ・・・」 ⇒ 19章1節 「それからイエスは、エリコにはいって・・・」、28節 「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた」とは、受難週のエルサレム入京である。
今朝の記事に戻りたい。主には、いつもと違った雰囲気が醸し出されていた。51節 リビングバイブル訳 「鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれ」た主は、使いの者を出されて、宿を取る準備をさせた。

ところが、53節 「しかし・・・サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」とあり、断られたのだ。

① その理由は、53節a 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので」とある。

場所は何と言っても、友好関係にある町ではない。使者たちは、宿を提供してもらう為に、その目的を話しただろうか ? その場合、サマリヤ人たちは、 “ 何故、私たちが協力しなければならないのか !! ” という腹立たしさが露骨に出たと考えられる。
それは、ユダヤ人とサマリヤ人とは、長い歴史を通じて緊張関係にあったことを鑑( かんが )みれば当然なことと考えられる。
自らを生粋の、神の選民であると誇るユダヤ人から、アッシリヤとの雑婚によって生存して来た人々だとして蔑視されて来たのだから。かつてバビロン捕囚から、エルサレム再建工事の為に帰還が許されたユダヤ人たちを罵( ののし )って妨害した人たちが、このサマリヤ人だったのだ。
主の初期伝道で訪れた、サマリヤの町スカルでのこと。主が「水を飲ませてください」と、一人の失われた女性に近づかれた時、彼女から「あなたはユダヤ人なのに、どうして・・・。 ヨハネの福音書 4章7、9節」と反感を買われたのに同様。

② 弟子たちの反応は、54節 「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」だった。

欄外 ※ を見ると、さながらエリヤ気取り。カルメル山で預言者エリヤが、偶像バアルの預言者四百五十人を相手に火を呼びおこしたように、である。マルコの福音書 3章17節 「雷の子」と呼ばれたのは、彼らの激しい性格が意味されているのでは ?
彼らの主を思う思いからではあるが、55節で主が彼らを戒められた以上、正義感からとは言え、肉的な怒り、報復の精神に基づくもの。同時に、同節欄外 ※ によると、自らの分を弁( わきま )えないとの、主からの叱責が。驕( おご )りからくる自らの霊的状態に無知なのだ。

③ 求めるべき態度は、弟子たちを叱責された主にある。

56節 欄外 ※ 「人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです」にある。
このことは既に、4章16~21節で明確にされていた。「きょう、聖書のこのみことばが・・・実現しました。」とある。即ち、18節の要約である、19節 「主の恵みの年を告げ知らせ」であり、それが成就したと語られた時、イザヤ書 61章2節a 「主の恵みの年」で閉じられ、2節a’ 「われわれの神の復讐の日を告げ」を読まれなかった主の心である。「主の恵みの年」とは、18節の福音に生きるご生涯の年月であり、「神の復讐の日」とは、主の再臨による裁きの日【テサロニケ人への手紙 第二 2章8、12節 「来臨の輝きをもって滅ぼ」す日】のこと。

※ 十字架への道に進まれる主に近く歩む者でありたい。

この記事へのコメント