聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 45


ルカの福音書9章43節~50節

先週は、主が 《 姿変わりを経験されたヘルモン山から下山 》 されて、直ちに対応を迫られた問題【40節 「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」】に注目した。22節で、ご自身の身に迫っているご受難を吐露されたばかりの主は、「曲がった今の世」の不信仰を嘆かざるを得なくされた。取り分け、側近の弟子たちのその事実への悲嘆は大きかった。

ⅰ 主の嘆かれた、弟子たちの不信仰とは ?
9章1節 「彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とをお授けになった」事実がありながら出来なかったところに見る。その当初では、7~9節の 《 ヘロデが脅威を抱く程の結果 》 が見られたが、今は !! 既に授けられた「力と権威」の与え主への継続的信仰が欠如していた。

ⅱ 主は、弟子たちの不信仰に失望させられつつも、尚、弟子たちを諦めずに 《 弟子たちの信仰を鼓舞された 》。
a. 41節b 「あなたの子をここに連れて来なさい。」と、弟子たちの前で、42節 「汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」、業をなさる主を目撃させることによって。
b. 43、44節 「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。『 ・・・人の子は、いまに人々の手に渡されます。 』 」と、弟子たちの関心を直ちに 《 業の最終目的である受難に移し 》、主のご生涯の究極を再認識させることによって。

※ 主と歩みを共にする 《 信仰に生きる弟子 》 でありたい、と。


今朝は、46節 「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」に対して、47節 「しかしイエスは」とあり、49節 「ヨハネが答えて言った。『 先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。 』 」に対して、50節 「しかしイエスは」と 《 彼らを扱われる主の重荷 》 に注目したい。
私たちは、主が、弟子たちの霊的問題【肉的性質】を見逃さずに、その都度厳格に扱われるお方であることに注目したい。

① 主が扱われた弟子たちの肉的性質は何だったのか ?

a. 46節 詳訳 「ところが、弟子たちの間に、彼らのうちで、誰が一番偉いか( 即ち、他の者よりも長所、価値、権威の点で抜きんでているか )ということで議論が起こった」に見る。
この「ところが」を見逃さずに見ておきたい。
前節を受けて、そんなことはさて置き !! ということなのだ。
44節で主から、「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」との極めて際どい問題が伝えられても、45節 「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった」とあるが、弟子たちの心は 《 自分たちの優劣の如何に関心があるだけで、主の重荷が何であろうがどうでも良かった 》 からなのだ。「わからないように・・・隠されていた」とあるのも、主が隠された ? からなのではなく、「・・・イエスに尋ねるのを恐れた」という彼らの 《 自分の利益とは無縁なこと、厄介なことには関わりたくないとする 》 肉によったのだと。
人との比較で、誰よりも上に立ちたい、そうでなければ満足しないという傲慢( ごうまん )な罪深い思いに夢中になる。自分だけで満足するのではなく、誰かと比べて優越感に浸ろうとする思い。人に忠告されたり、口出しされたり、指導されることを嫌う。彼らのこの議論の本質的な問題は、ここにある。
b. 49節 「・・・仲間ではないので、やめさせた」に見る。
「先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見」たというのならば、本来ならば喜ばしいこと。しかし喜ぶどころか、「仲間ではない」との理由で「やめさせた」とある。
先には、自分たちには出来なかった為に、主から不信仰を指摘されたばかりの弟子たち。自分たちに出来なかったことでも、彼らには結果が出たことへの嫉妬心が心の根にあってか、「仲間ではない」という理由を盾に、「やめさせ」るとは、何という大それた出方をする弟子たち。
しかも、主に尋ねることもせずに、自分たちの判断で「やめさせた」と言ってくる始末で、事後報告なのだ。
何としいう自己中心性 !! 仲間意識が排他的になる時、最も大切な 《 愛の視点 ⇒ 主がどう思われるか 》 を失う。自分たちこそが一番正しいとし、裁き、決して耳を貸さないというような態度を取る時、独善的になるから恐ろしい。
ガラテヤ人への手紙 5章19~21節 「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ( 我を張る )、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ( 奪う )、酩酊、遊興、そういった類のものです」という、17節 「肉の願うこと」だからである。

② 主は何故、弟子たちの肉的性質を黙認せずに扱うのか ?

ガラテヤ人への手紙 5章21節c 「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」で明白。それは、同 17節 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立し」ているからである。
ローマ人への手紙 8章13節 詳訳 「もしあなたがたが肉【の指令】に従って生きるならば、必ず死ぬのです。しかし聖霊の力によって、からだによって引き起こされる【色々な邪悪な】行為を常時殺す 《 死んだものにする 》 ならば、あなたがたは 《 真実な純粋ないのちに何時でも 》 生きるのです」に留意を。

③ 主のご性質こそ、私たちが渇いて求めるべき性質 !!

主は、47、50節 「しかし」、48節 「一番小さい者( 謙遜な者 )が一番偉い」と言われた。どういう人が謙遜 ? 弟子たちが軽視する者【子供に代表される、人間的標準で卑しめられている者】をどの様に見、感じ、接するのか ? 尊敬し大切にするのか ? ぞんざいに接するのか ? 主に接するように接するのか ? しばしば学んでいるように、マザー・テレサの偉大さは、世からは見向きもされない人々に主を見て、誰をも見下さず、懇( ねんご )ろに愛し、お世話する生き様にあった。
実に主の偉大さこそ、見下されるべき私たち罪人を愛し、命すら捨てて下さったご生涯に証された。

※ 肉の扱いには、当然痛みを覚えるが、見逃さずに扱われた主の厳格な姿勢を愛と覚え、お互いの求めるところとしたい。

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