聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 44


ルカの福音書9章37節~45節

先週は、28、29節 「・・・御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」という 《 主の姿変わりの意義について 》 考えた。

ⅰ 主ご自身にとっての意義について :
ご受難を吐露された主には、激励が必要だったこと。
主が、進まれる十字架の道を吐露するや否や、立ちはだかるサタンの挑戦状を、「神のキリスト」と告白したペテロの口を通して突き付けられた時、28~30節 「モーセとエリヤ」の登場と、聖父の顕現により激励を受けられた。

ⅱ 弟子たちにとっての意義について :
ペテロは、ペテロの手紙 第二 1章16~18節 「キリストの威光の目撃者なのです」との経験があったからこそ、ローマ帝国の大迫害下で使命を全うし得、ヨハネも又、その時のヘルモン山で目撃した主を見ていたから( 黙示録 1章9~20節 )激励となった。
この経験は、宣教する弟子たちに必要だった。証人である私たちにおいても同様。日々主を見る生活に留意したい。

ⅲ 37節 「次の日、・・・山から降りて」に、主の献身の証を。
33節で弟子たちが、「ここにいることは、すばらしいことです」と絶賛したのは、いつまでも留( とど )まっていたい経験だったからだ。しかし主は 《 十字架を目前に垣間見せて頂いた栄光を背にして 》 受難を飲み干すべく下山された。
主が、人の子としてこの世に生を受けられたご目的を、十字架の死に至るまで忠実に果たされる為の下山である。

※ ローマ人への手紙 15章1~6節 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」というご生涯を、瞬時全うされた主に倣って、私たちも心してその歩みに従いたい、と。


今朝は主が 《 姿変わりを経験されたヘルモン山から下山 》 されるや否や、対応を迫られた問題に注目したい。
その問題とは、主が、41節 「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と言わざるを得なくされたこと、即ち、40節 「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、・・・できませんでした。」と、ここにある。
コリント人への手紙 第一 13章7節 「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍」ばれるお方によるおことばである時、問題の深刻さに注目しなければならない。
私たちが、自分に不都合だから言うのとは次元が違う。
主ご自身の個人的な感情の問題ではなく、いつまでも一緒にいる訳にはいかない、極めて緊迫している時期での有様への危機感、そこから来る嘆きである。主は9章22節で、間近に迫っておられるご受難について語られたばかり。
更に、主は、「霊を追い出してくださるよう」にと願っている父親に、42節 「その子をいやし・・・渡され」、その御業を見た、43節 「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた」、44節 「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と、主の心と思いとは、十字架の日に向けられているのだ。
その後の記事、51節の、「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ・・・」との言及からでも分かる。
《 不信仰 》 を深刻な問題として取り扱われた時、主は、41節 詳訳 「ああ〈 信仰のない者たちよ 〉」と呼び掛けられた。
日夜宣教に携わりつつも悲嘆される主の重荷は、「曲がった今の世」の実感そのものである。後、しばしばご自身の重荷を吐露されるおことばに、13章34節 「ああ、エルサレム、エルサレム。・・・それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」、19章41~44節 「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた・・・」との嘆息が。
この不信仰への嘆きは、時代を構成する一人一人の不信仰の実態を嘆かれてのこと。ここでは、側近の弟子たちがそうであっただけに、抱かれた悲嘆は大きい。

① 主の嘆かれた、弟子たちの不信仰とは ?

40節 「お弟子たちにはできませんでした。」とあるが、既に、9章1節 「彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった」上での結果であったことにある。
その当初、7~9節の 《 国主ヘロデが脅威を抱く程の結果 》 が見られた。そこには、彼らの主の召命への忠誠があり、緊張感があったからなのだ。にも拘らず、今は !!
主が霊に取りつかれたその子を癒された後に弟子たちは、「・・・そっとイエスのもとに来て、・・・ 『 なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。 』 マタイの福音書 17章19節」と尋ねた。
主の答えが、「それは信仰が小さい〈 堅くより頼む信頼の欠如の 〉為・・・ 同 20節 詳訳」だったと。
更に、「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。 同 21節」と。主への信頼に、雑念の入る余地を与えない真面目さ、真剣さが必要だと。
主への信頼とは 《 既に授けられた「力と権威」を忠実に用いるという行動に出さえすれば 》 与え主である主が働かれるとの信仰。そこに人間的な煩( わずら )い、恐れ、結果への不安等々はなく、それらの雑念を振り払う真面目さが肝要。

② しかし主は、弟子たちの不信仰に失望させられつつも、弟子たちを諦めずに 《 信仰を鼓舞された 》。

a. 41節d 「あなたの子をここに連れて来なさい。」と、弟子たちの前で、42節 「・・・それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された」と、尚も、業をなさる主を目撃させることによって。
マルコの福音書 9章14~27節【17節 「私の息子を」 ⇒ 22節 「私たちを」 ⇒ 24節 「不信仰な私をお助けください。」】との叫びにまで導かれて、わざを行われる主をである。
b. 43、44節 詳訳 「そこで、人々はみな、神の偉大な力〈 ご威光、崇高さ 〉の証拠を見て驚嘆した。ところで、一同がイエスのされた全ての事に驚いている間に、イエスは弟子たちに言われた。・・・人の子は、人々の手に渡されようとしている」と、弟子たちの意識を直ちに 《 業にではなく、究極目的である受難に移し 》 危機感を持たせることによって。

※ 主と歩みを共にする 《 信仰に生きる主の弟子 》 でありたい。

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