ルカの福音書9章28節~37節
先週、主が弟子たちの霊的状態を確認されてから、22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学んだ。
ペテロの告白 ※ 20節c 「神のキリストです。」を待たれてなされたのが 《 重荷の吐露 》 であるが、ここに三つの事を学んだ。
ⅰ 主のご生涯の方向についての明言であること。
ユダヤ人たちが求めていたメシヤ像は、ローマ帝国に太刀打ち出来る【奇蹟を行う成功者、権威者】。彼ら同様、弟子たちにおいても少なからず抱いていた幻。その為、主のこの明言は、弟子たちにかなりの衝撃を与えたに違いない。しかし主は 《 受難を通過して後、勝利される 》 と明言。
ⅱ 23節は、弟子たちにも求められる生涯との明言であること。
「自分を捨て」とは、ピリピ人への手紙 2章4~8節が模範であり、人類の贖( あがな )いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられたこと。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
聖霊によって明るみにされた 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。
ⅲ 但し、主のご生涯は、あくまでも自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。
弟子たちにも、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。
※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい、と。
今朝の場面は、恐らくガリラヤ湖から数十キロ北に位置するへルモン山ではないかとされているが、28、29節 「・・・御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」という 《 主の姿変わりの意義について 》 考えたい。
この出来事は 《 主がご受難の重荷を吐露された直後のことだった 》 との兼ね合いで見る時、その意義が見えて来る。
① 主ご自身にとっての意義について :
ご受難を吐露された主には、激励が必要だったこと。
主は、ご自身の受難を初めて聞くことになった弟子たちの反応に、少なからず、危機感を覚えられたからである。
マタイの福音書 16章21~23節に、「・・・するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『 主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。 』 」との言及があり、主がそのペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う必要に迫られたと伝えていることで分かる。その後で ※ 24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と問い掛けたのは、弟子として従う彼らの本気度を確かめる必要からで、従うには覚悟なしでは適わないとの厳格な扱いだった。
主は、ご自身が進まれる十字架の道を吐露するや否や、直ちに妨害しようと立ちはだかるサタンの挑戦状を、「神のキリスト」と告白したばかりのペテロの口を通して突き付けられた時、戦慄されたに違いない。
そこで主は、そのお気持ちを聖父に注ぎ出すべく、ルカの福音書 9章28節 「ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた」のだ。その主が何と !! 29節 「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝い」ており、30節 詳訳 「すると見よ」と、サタンの挑戦を受けて聖父に近づかれた御子の必要を最も知る聖父が、「モーセとエリヤ」をも、栄光のうちに登場させ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話」をするように導かれたのだ。
この「ご最期」とは、【エクソドス ⇒ 出エジプト記の名称であり、旅立つ・出発・退出を意味する】。出エジプト記は【イスラエルがエジプトを出るその夜、屠( ほふ )った小羊の血を家々の二本の門柱とかもいにつけて神の裁きから免( まぬか )れ】、エジプトを脱出した記録の書。正に、主は屠られて流す血によって、人類を神の裁きから免れさせるお方である。
モーセはこの事実のみならず、あらゆる事実を通して主のご最期について語り、エリヤは預言者を代表して共に、 “ 私たちは、創世記 3章15節で約束された 《 サタンの頭を打ち砕く十字架による 》 贖( あがな )いを預言し続けて来ました ” と語り、主と厳粛な会話が取り交わさたのだ。
人の子としての主は、どんなにか励まされたことか !!
その上、この状況を見ておられた聖父が、35節 「すると雲の中から、『 これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい 』 」と、あの受洗の時に同様、直接顕現されたのだ。
② 弟子たちにとっての意義について :
ペテロが後、ネロ皇帝の大迫害下にあって力強く教会を激励し得たのは、ペテロの手紙 第二 1章16~18節 「・・・この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と言い得たことにある。
《 主の姿変わり 》 を目撃した彼らは、主への畏怖の念に打たれた。それを、9章33節の突拍子もない提案に、34節の恐怖心に、36節の沈黙した姿に見る。
ヨハネが迫害下で激励されたのも、黙示録 1章9~20節の主を、ヘルモン山で目撃していたからである。
この経験は、宣教する弟子たちに必要だった。証人である私たちにおいても同様。日々主を見る生活に留意したい。
③ 37節 「次の日、・・・山から降りて」に、主の献身の証を。
33節で弟子たちが「ここにいることは、すばらしいことです」と絶賛したのは、いつまでも留( とど )まっていたい経験だったからだ。しかし主は、一瞬の間でも垣間見せて頂いた栄光を背にして、十字架の受難を飲み干すべく下山された。
主が、人の子としてこの世に生を受けられたご目的を、十字架の死に至るまで忠実に果たされる為の下山である。
※ ローマ人への手紙 15章1~6節 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」というご生涯を、瞬時全うされた主に倣って、私たちも心してその歩みに従いたい。
先週、主が弟子たちの霊的状態を確認されてから、22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学んだ。
ペテロの告白 ※ 20節c 「神のキリストです。」を待たれてなされたのが 《 重荷の吐露 》 であるが、ここに三つの事を学んだ。
ⅰ 主のご生涯の方向についての明言であること。
ユダヤ人たちが求めていたメシヤ像は、ローマ帝国に太刀打ち出来る【奇蹟を行う成功者、権威者】。彼ら同様、弟子たちにおいても少なからず抱いていた幻。その為、主のこの明言は、弟子たちにかなりの衝撃を与えたに違いない。しかし主は 《 受難を通過して後、勝利される 》 と明言。
ⅱ 23節は、弟子たちにも求められる生涯との明言であること。
「自分を捨て」とは、ピリピ人への手紙 2章4~8節が模範であり、人類の贖( あがな )いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられたこと。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
聖霊によって明るみにされた 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。
ⅲ 但し、主のご生涯は、あくまでも自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。
弟子たちにも、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。
※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい、と。
今朝の場面は、恐らくガリラヤ湖から数十キロ北に位置するへルモン山ではないかとされているが、28、29節 「・・・御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」という 《 主の姿変わりの意義について 》 考えたい。
この出来事は 《 主がご受難の重荷を吐露された直後のことだった 》 との兼ね合いで見る時、その意義が見えて来る。
① 主ご自身にとっての意義について :
ご受難を吐露された主には、激励が必要だったこと。
主は、ご自身の受難を初めて聞くことになった弟子たちの反応に、少なからず、危機感を覚えられたからである。
マタイの福音書 16章21~23節に、「・・・するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『 主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。 』 」との言及があり、主がそのペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う必要に迫られたと伝えていることで分かる。その後で ※ 24節 「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と問い掛けたのは、弟子として従う彼らの本気度を確かめる必要からで、従うには覚悟なしでは適わないとの厳格な扱いだった。
主は、ご自身が進まれる十字架の道を吐露するや否や、直ちに妨害しようと立ちはだかるサタンの挑戦状を、「神のキリスト」と告白したばかりのペテロの口を通して突き付けられた時、戦慄されたに違いない。
そこで主は、そのお気持ちを聖父に注ぎ出すべく、ルカの福音書 9章28節 「ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた」のだ。その主が何と !! 29節 「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝い」ており、30節 詳訳 「すると見よ」と、サタンの挑戦を受けて聖父に近づかれた御子の必要を最も知る聖父が、「モーセとエリヤ」をも、栄光のうちに登場させ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話」をするように導かれたのだ。
この「ご最期」とは、【エクソドス ⇒ 出エジプト記の名称であり、旅立つ・出発・退出を意味する】。出エジプト記は【イスラエルがエジプトを出るその夜、屠( ほふ )った小羊の血を家々の二本の門柱とかもいにつけて神の裁きから免( まぬか )れ】、エジプトを脱出した記録の書。正に、主は屠られて流す血によって、人類を神の裁きから免れさせるお方である。
モーセはこの事実のみならず、あらゆる事実を通して主のご最期について語り、エリヤは預言者を代表して共に、 “ 私たちは、創世記 3章15節で約束された 《 サタンの頭を打ち砕く十字架による 》 贖( あがな )いを預言し続けて来ました ” と語り、主と厳粛な会話が取り交わさたのだ。
人の子としての主は、どんなにか励まされたことか !!
その上、この状況を見ておられた聖父が、35節 「すると雲の中から、『 これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい 』 」と、あの受洗の時に同様、直接顕現されたのだ。
② 弟子たちにとっての意義について :
ペテロが後、ネロ皇帝の大迫害下にあって力強く教会を激励し得たのは、ペテロの手紙 第二 1章16~18節 「・・・この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と言い得たことにある。
《 主の姿変わり 》 を目撃した彼らは、主への畏怖の念に打たれた。それを、9章33節の突拍子もない提案に、34節の恐怖心に、36節の沈黙した姿に見る。
ヨハネが迫害下で激励されたのも、黙示録 1章9~20節の主を、ヘルモン山で目撃していたからである。
この経験は、宣教する弟子たちに必要だった。証人である私たちにおいても同様。日々主を見る生活に留意したい。
③ 37節 「次の日、・・・山から降りて」に、主の献身の証を。
33節で弟子たちが「ここにいることは、すばらしいことです」と絶賛したのは、いつまでも留( とど )まっていたい経験だったからだ。しかし主は、一瞬の間でも垣間見せて頂いた栄光を背にして、十字架の受難を飲み干すべく下山された。
主が、人の子としてこの世に生を受けられたご目的を、十字架の死に至るまで忠実に果たされる為の下山である。
※ ローマ人への手紙 15章1~6節 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」というご生涯を、瞬時全うされた主に倣って、私たちも心してその歩みに従いたい。
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