ルカの福音書9章18節~27節
先週は、四つの福音書全てに記録されている 《 五つのパンと二匹の魚 》 の奇蹟から、13節 「しかしイエスは、彼らに言われた。『 あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。 』 」と、弟子たちの ※ 12節の提案を退けられた主のお心に学んだ。
ⅰ 弟子たちの動機を問題にされた主。
主は、その環境を問題にした彼らの短絡的発想 《 だから無理だ !! とする 》 愛の欠如 !! を問題にされた。
弟子たちは、11節 「喜んで彼ら( 群衆 )を迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」主に、「解散させてください」という無関心さ !!
主は常に己の必要にではなく、聖父の必要に生きるべく、瞬時ご自身を明け渡しておられたのだ。
ⅱ 弟子たちの不信仰を問題にされた主。
主は弟子たちが心配した 《 日が暮れ始めた事、大勢の人々に給食が必要である事、給食の調達が困難な場所である事 》 を知っておられる。主の ※ 13節 「あなたがたで」に、13節b 「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません」、〈 それとも、まさか 〉「私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか」と言った時の彼らには、主を期待する信仰が、微塵もない。
ⅲ 弟子たちのこれらの実情【愛も信仰もないという現実】を咎( とが )めず、退けずに、主の働きの為に彼らを教育された主。
14節 「人々を・・・すわらせなさい」、16節b 「群衆に配るように弟子たちに与えられた」に見る主の内的強さ。
※ 忍耐の限りを尽くして真理に導かれる主に学びたい。
今朝は、主が弟子たちの霊的状態を確認され、9章22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学びたい。
主が弟子たちに、十字架による受難予告を吐露された初めてのものである。彼らは既に、主のご奉仕も半ばを迎えた半年前には使徒として選ばれていたものの、未だ、主のご受難についてお話して頂ける状態にはなかったからである。
それは、あくまでも彼らの主を知る経験の不確かさの故にではあるが、 《 五つのパンと二匹の魚による五千人の給食 》 を目撃し、又、その直後の 《 水上歩行の出来事、四千人の給食 》 があって後( マタ 14・25、15・32~ )、遂に重荷を打ち明ける為に彼らを扱われた。
主は、彼らを試験された。20節 「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。その前に、18節 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と質問をされた。弟子たちは、19節 「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています」と答えている。
この評判の全てを主は知っておられたが、敢えて聞かれた。
それは彼らの理解をより確かなものにしたいとのお考えから。この世の人々の言う人物【偉大な働きをする人、殉教者、英雄的存在 ⇒ 旧約当時の人々がそのように認めて、彼らに従順だった訳ではないが、過去の歴史的事実として見る限り、権威ある働きをしたとして彼らを認めざるを得なくされてのこと】とは違う任務を担っていると強調する為にである。
ペテロの20節c 「神のキリストです。」の答えは【マタイの福音書 16章17節 「あなたは幸いです・・・」】と主の御心に叶った。主のご受難の吐露は、この告白を待ってのことだった。
《 主のこの重荷の吐露 》 から、三つのことを考えたい。
① 主のご生涯の方向についての明言。
人々は、五つのパンと二匹の魚の奇蹟を見た時、ヨハネの福音書 6章14節 「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、主を ※ 15節 「王とするために、むりやりに連れて行こうと」した為、それと知られた主は、「ただひとり、また山に退かれた」とある。
ユダヤ人が求めていたメシヤ〈 救世主 〉は、ローマ帝国に太刀打ち出来る人であって、このような奇蹟を行う成功者、権威者こそ適任だとして熱狂的になった。弟子たちにおいても少なからず、同様の思いを抱いていた幻でもあった。
弟子たちは辛うじて、一般の人々とは違って、主を「神のキリスト、生ける神の御子キリスト」と告白したものの、主の復活に、使徒の働き 1章6節 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と、〈 未だに、世的な成功者としての主を期待していただけに 〉、主のこの明言( ルカ 9・22 )には、失望に近い衝撃を受けたに違いない。しかし、主は受難を通過して勝利されると明言。 『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 92、93p “ 黙示録では、「獅子」ではなく「小羊」が、神、王、牧者、審判者のシンボルとして用いられている。それは常識的な発想を覆していく力、逆説的な王国の姿を示している ” とある。
② 弟子たちにも求められる生涯であるとの明言。
23節 「イエスは、みなの者に言われた。『 ・・・自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい・・・ 』 」と。即ち、主の弟子でありたいならば、〈 主の歩まれる道、生き方 〉を〈 自分の道、生き方 〉にするようにと。
「自分を捨て」とは、自分の権利を主張せずに隣人の権利を認め、尊重し、その為に主に自らを明け渡すこと。
ピリピ人への手紙 2章4~8節は、主の模範である。罪人である私たちの救いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられた。即ち、聖なる方が、自らの尊厳を捨てて罪ある者として十字架で命を捨てられた。誤解されて、濡れ衣を着せられ、裁かれる道を。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
即ち、聖霊の光によって明るみにされた私たちの 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。そこに生きる時にのみ、真のいのちがあり、主の為の実がある。
③ 但し、主のこのご生涯は自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。
主の受難は、主の聖父を愛するが故の自主的選択である【ヨハネの福音書 12章27節、ルカの福音書 22章42節】。弟子たちに主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。
※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい。
先週は、四つの福音書全てに記録されている 《 五つのパンと二匹の魚 》 の奇蹟から、13節 「しかしイエスは、彼らに言われた。『 あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。 』 」と、弟子たちの ※ 12節の提案を退けられた主のお心に学んだ。
ⅰ 弟子たちの動機を問題にされた主。
主は、その環境を問題にした彼らの短絡的発想 《 だから無理だ !! とする 》 愛の欠如 !! を問題にされた。
弟子たちは、11節 「喜んで彼ら( 群衆 )を迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」主に、「解散させてください」という無関心さ !!
主は常に己の必要にではなく、聖父の必要に生きるべく、瞬時ご自身を明け渡しておられたのだ。
ⅱ 弟子たちの不信仰を問題にされた主。
主は弟子たちが心配した 《 日が暮れ始めた事、大勢の人々に給食が必要である事、給食の調達が困難な場所である事 》 を知っておられる。主の ※ 13節 「あなたがたで」に、13節b 「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません」、〈 それとも、まさか 〉「私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか」と言った時の彼らには、主を期待する信仰が、微塵もない。
ⅲ 弟子たちのこれらの実情【愛も信仰もないという現実】を咎( とが )めず、退けずに、主の働きの為に彼らを教育された主。
14節 「人々を・・・すわらせなさい」、16節b 「群衆に配るように弟子たちに与えられた」に見る主の内的強さ。
※ 忍耐の限りを尽くして真理に導かれる主に学びたい。
今朝は、主が弟子たちの霊的状態を確認され、9章22節 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」と言われた箇所に学びたい。
主が弟子たちに、十字架による受難予告を吐露された初めてのものである。彼らは既に、主のご奉仕も半ばを迎えた半年前には使徒として選ばれていたものの、未だ、主のご受難についてお話して頂ける状態にはなかったからである。
それは、あくまでも彼らの主を知る経験の不確かさの故にではあるが、 《 五つのパンと二匹の魚による五千人の給食 》 を目撃し、又、その直後の 《 水上歩行の出来事、四千人の給食 》 があって後( マタ 14・25、15・32~ )、遂に重荷を打ち明ける為に彼らを扱われた。
主は、彼らを試験された。20節 「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と。その前に、18節 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」と質問をされた。弟子たちは、19節 「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています」と答えている。
この評判の全てを主は知っておられたが、敢えて聞かれた。
それは彼らの理解をより確かなものにしたいとのお考えから。この世の人々の言う人物【偉大な働きをする人、殉教者、英雄的存在 ⇒ 旧約当時の人々がそのように認めて、彼らに従順だった訳ではないが、過去の歴史的事実として見る限り、権威ある働きをしたとして彼らを認めざるを得なくされてのこと】とは違う任務を担っていると強調する為にである。
ペテロの20節c 「神のキリストです。」の答えは【マタイの福音書 16章17節 「あなたは幸いです・・・」】と主の御心に叶った。主のご受難の吐露は、この告白を待ってのことだった。
《 主のこの重荷の吐露 》 から、三つのことを考えたい。
① 主のご生涯の方向についての明言。
人々は、五つのパンと二匹の魚の奇蹟を見た時、ヨハネの福音書 6章14節 「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、主を ※ 15節 「王とするために、むりやりに連れて行こうと」した為、それと知られた主は、「ただひとり、また山に退かれた」とある。
ユダヤ人が求めていたメシヤ〈 救世主 〉は、ローマ帝国に太刀打ち出来る人であって、このような奇蹟を行う成功者、権威者こそ適任だとして熱狂的になった。弟子たちにおいても少なからず、同様の思いを抱いていた幻でもあった。
弟子たちは辛うじて、一般の人々とは違って、主を「神のキリスト、生ける神の御子キリスト」と告白したものの、主の復活に、使徒の働き 1章6節 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と、〈 未だに、世的な成功者としての主を期待していただけに 〉、主のこの明言( ルカ 9・22 )には、失望に近い衝撃を受けたに違いない。しかし、主は受難を通過して勝利されると明言。 『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 92、93p “ 黙示録では、「獅子」ではなく「小羊」が、神、王、牧者、審判者のシンボルとして用いられている。それは常識的な発想を覆していく力、逆説的な王国の姿を示している ” とある。
② 弟子たちにも求められる生涯であるとの明言。
23節 「イエスは、みなの者に言われた。『 ・・・自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい・・・ 』 」と。即ち、主の弟子でありたいならば、〈 主の歩まれる道、生き方 〉を〈 自分の道、生き方 〉にするようにと。
「自分を捨て」とは、自分の権利を主張せずに隣人の権利を認め、尊重し、その為に主に自らを明け渡すこと。
ピリピ人への手紙 2章4~8節は、主の模範である。罪人である私たちの救いの為に、ご自身の権利の全てを捨てられた。即ち、聖なる方が、自らの尊厳を捨てて罪ある者として十字架で命を捨てられた。誤解されて、濡れ衣を着せられ、裁かれる道を。
「十字架を負い」とは、主が私たちの罪の為に呪われて掛けられた十字架に、主と共に私たちも付くことである。
即ち、聖霊の光によって明るみにされた私たちの 《 罪深い行為と罪の忌まわしい性質 》 をその都度、その事実を憎んで告白し、赦しと清めに与り続けることである。そこに生きる時にのみ、真のいのちがあり、主の為の実がある。
③ 但し、主のこのご生涯は自主的なものであって、強制的なものではないだけに、厳粛であること。
主の受難は、主の聖父を愛するが故の自主的選択である【ヨハネの福音書 12章27節、ルカの福音書 22章42節】。弟子たちに主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と迫られた。
※ 受難の主を知っているだろうか ? 主の道に従いたい。
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