聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 41


ルカの福音書9章10節~17節

先週は、主の働きが拡大していく中で、弟子たちを召し出した目的に適うべく 《 徐々にやがての日 》 、即ち、主が天に召されて後、宣教の担い手・後継者として立つ日に向けて 《 訓練の一環として 》 伝道に派遣された記事に注目した。
主の証人として弁( わきま )えるべき姿勢について、考察を。

ⅰ 2節 「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために」、6節 「出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した」、主の派遣目的の弁えを。
弟子たちは忠実だった。主は人々の必要について、霊的必要の為に福音【罪からの救い】と、肉体的必要の為に病気の癒しをと命じられたが、主の指導通りに自らを提供した。

ⅱ 3~5節のご指示から、悉( ことごと )く、派遣者を信頼すべきことを。極めて、彼らの出で立ちは簡素で軽装だった。

ⅲ 10節b 「それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた」と、霊的扱いに与るべきことを。
宣教の結果は、7~9節で国主ヘロデが、「すべての出来事を聞いて」、即ち、人々が弟子たちを派遣した主を賞賛するのを聞いて、主に脅威を抱いた程である。
その評判を聞かれて後、弟子たちを働きの成果から引き離し、彼らとの時間を取ろうとされた。
酔いしれるべきではない。弟子たちの肉には危険なこと。それらの結果は、主が ※ 1節 「力と権威とをお授けになった」のであって、弟子たちの何かによったのではないから。

※ 私たちも又、弟子たちのようにこの世に派遣された者としての自覚を頂いて、御心に適った証人でありたい、と。


今朝は、四つの福音書全てに記録されている 《 五つのパンと二匹の魚 》 の奇蹟に学びたい。
この奇蹟は、伝道の旅から帰って来た弟子たちの報告を受けて後、10節 「イエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた」が、11節 「多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」、その所で行われたもの。
注目したい聖句は、13節 「しかしイエスは、彼らに言われた。『 あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。 』 」であるが、この「しかし」には、前節で弟子たちが持って来た提案を退けられた主のお気持ちが吐露されている。
弟子たちの提案は、12節 「そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、『 この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから 』 と言った」というものだった。

彼らの提案を退けられた 《 主 》 に学びたい。

① 弟子たちの動機を問題にされた主。

弟子たちにとっては、主が「あなたがたで・・・」と言われても、到底理解出来るものではなかった。彼らは「人里離れた所」なので、打つ手がないとしていたから。
しかし主は、その環境を問題にした彼らの短絡的発想 《 だから無理だ !! とする 》 その心を問題にされた。
【だから無理】とする心の態度は、何処から来るのか ?
何と言っても、愛の欠如 !!  いつでも主は、隣人の必要の前に【だから無理】とする肉的常識を捨てて、何としても応えたいとして、いつでもご自身を差し出される。
弟子たちは、11節 「喜んで彼ら( 群衆 )を迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった」主を、どの様な思いで見ていたのだろうか。12節に出て来る彼らの言葉は、彼らの心の反映である。開口一番「この群衆を解散させてください」であるが、何という無関心さ !!
群衆に対応される主から、何一つ学ぼうともせず、感動する様子もない。お手伝いを申し出るのでもない。「暮れ始めた」とあるが、それまで彼らは、主とは距離をもって見ていただけ。そうならば、せめて主のご指示を仰ぎ、 “ 主が仰ることに、何でもお従い致しますから ” と出るべきではないだろうか。それどころか、主が群衆と関わっておられる間に交わした議論の結果なのか ? 主に指図する始末 !!
去らせることしか考えない。「あなたがたで」と言われた時でも、13節b 「・・・ほか何もありません。私たちが出かけて行って・・・買うのでしょうか。」と覇気がなく、無気力でしかない。
弟子たちは、 《 無力な自分 》 に気付いてはいるが、残念ながらその無力さの自覚から立ち上がって、 “ どうすべきでしょうか ” と出る意気込みもなく、積極的に主の指導を求めようとしない。
主は、ベツサイダに弟子たちを連れて退かれたのは ※ 10節 「ひそかに」なのであって、求められる働きから離れて静まる為であったが、突然の変更にも順応された。
愛は、どの様な突発的な必要にも動揺せずに対応させる。
主は常に己の必要にではなく、聖父の必要に生きるべく、瞬時ご自身を明け渡しておられたのだ。

② 弟子たちの不信仰を問題にされた主。

主は、どれ程群衆に手を取られていようとも 《 日が暮れ始めた事、人々( ※ 14節 )に給食が必要である事、また給食の調達が困難な場所柄である事 》 を、知らない筈はない。
にも拘らず、弟子たちにはその信仰がなく、さも “ 現状を把握しているのは自分たちだ ” と言わんばかりに、主の許にやって来たのだ。何と !! 主は ※ 13節 「あなたがたで」と仰るではありませんか。その時、直ちに彼らから出て来た返答は、13節b 「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません」であり、〈 それとも、まさか・・・ 〉「私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか」 ? その様なことは絶対に無理です、という勢い。
そこには主を期待する信仰は、微塵もない。

③ 弟子たちのこれらの実情【愛も信仰もないという現実】を咎( とが )めず、退けずに、主の働きの為に彼らを教育された主。

14節 「人々を・・・すわらせなさい」、16節b 「群衆に配るように弟子たちに与えられた」に見る主の内的強さ。弟子たちは、この様にして育てられ、やがての日に備えられて行く。

※ 忍耐の限りを尽くして真理に導かれる主に学びたい。

この記事へのコメント