ルカの福音書9章1節~10節
先週は、〈 長血をわずらう女の割り込み 〉によって、後回しにされていた 《 ヤイロの求め 》 が応えられた出来事に学んだ。
ヤイロは、娘が死にかけているので何とか「家に来ていただきたい」と、8章41、42節、一刻の猶予も許されない状況にいたが、予期せぬ割り込みによって主の手が取られている間に、彼が最も恐れていた悲報を聞く羽目に( 49節 )なった時のこと。
この悲報を傍らで聞かれた主が、50節 「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われたおことばから、三つのことを学んだ。
ⅰ 「恐れないで」とは ?
詳訳では、「驚きに捕えられては【恐怖に打ちのめされては】いけない」である。そのような事態で〈 驚き、恐怖 〉を抱くことがあっても、その虜にならないようにとの意味。
ⅱ 「恐れないで」いる為には ?
「ただ信じなさい」と仰るお方への信頼を、マルコの福音書 5章36節 ※ 「信じ続けなさい」と、初めの信仰同様の持続を。
何故なら、主が「これを聞」かれたのは、49節 「イエスがまだ話しておられるときに」であり、主は女と言葉を交わしておられた間も、ヤイロの祈りを覚えておられるから。
ⅲ 「恐れないで」いる結果は ?
主は、50節b 「そうすれば、娘は直ります」と宣言されたように、ご自身を死から甦らせる復活の主であることを証された。ラザロの許に行くのを遅らせたのも、彼を復活の証人とするためであったに同様。
結果がどうであれ、全て主の栄光の為に考えておられる。
※ いつでも聖父を信頼された主に倣って信じる信仰を、と !!
今朝は、主の働きが拡大していく中で、弟子たちを召し出した目的に適うべく 《 徐々にやがての日 》 、即ち、主が天に召されて後、宣教の担い手・後継者として立つ日に向けての訓練の一環として伝道に派遣された記事に注目したい。
弟子たちの本格的な派遣は、ペンテコステを待たなければならなかったが、彼らは召しへの自覚を持つ必要があった。
復活の主が、使徒の働き 1章4、5節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と仰っておられるように、主の証人として世に出て行くには、肉による無力さのままでは到底適うものではないからである。
この意味では、ここで派遣された弟子たちの霊的状態を見る限り、派遣に備えられた状態ではなかった。つい、8章25節の 《 あのガリラヤ湖上での出来事 》 では、荒れ狂う嵐を治められた主を見て、「この方はどういう方なのだろう。」と驚いた程度で、主との霊的経験が不確かだったのだから。
しかし、使徒となるべく召された弟子たち。彼らをご自身がなさったように、ご自身の働きを見よう見まねでも理解し、及ばずながら担い手として当然知っておくべき基本的な姿勢について手解きされる必要による、今朝の記事になる。
旧約時代、 《 預言者、王、祭司 》 に限って、彼らのその都度の働きの為に聖霊を注ぎ、使命を遂行させたのに同様、9章1節 「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになっ」て、派遣されたということである。
こうした背景を踏まえた上で、弟子たちが受けた訓練から、お互い、主の証人として弁( わきま )えるべき姿勢について考えたい。
① 2節 「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために」、6節 「出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した」、主の派遣目的の弁えを。
弟子たちは、忠実だった。主は人々の必要について、霊的必要の為に福音【罪からの救い】と、肉体的必要の為に病気の癒しをと命じられたが、主の指導の通りに自らを提供した。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」とある詩篇 23篇は、主を、私たち人としての霊肉の極めて現実的な必要を考慮されるお方として告白されている。
使徒の働き 2章に出て来る教会では、魂の救いの為の霊的養いと共に、人々の生活の必要の為にも心配りがなされた。
エルサレム教会の指導者ヤコブも手紙の中で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 2章17節」と忠告している。
② 3~5節 「イエスは、こう言われた。『 旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。・・・あなたがたを受け入れないばあいは・・・ 』 とは、悉( ことごと )く、派遣者を信頼すべきことを。
命じられた出で立ちは、何と質素で、軽装であることか !!
エリヤが三年六か月の日照りの時、主からの ※ 列王記 第一 17章4節 「烏( からす )に、そこであなたを養うように命じ」、9節 「そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」に同様、信仰のみ。
即ち、主を完全に当てにする信仰が必要であること。
受け入れられないという困難にも遭遇するであろうが、その事実にも恐れる必要もなく、その場合には、「彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」と。
異邦の土地を旅してから聖なる地に入る時、国境で足とか衣から汚れた塵を払う行為だったが、福音を受け入れないことへの戒め、警告を与える為の指導である。
③ 10節b 「それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた」と、霊的扱いに与るべきことを。
宣教の結果は、7~9節 「国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた・・・」を引き起こす程の成果を見た。主お一人でしておられた働きを、十二人の弟子たちがするのを見た人々が口々に、弟子たちを派遣した主を賞賛し、主に脅威を抱いたからである。
いつでもここが重要。この10節b 「それから」とは、 《 彼らの報告を聞いてから 》 ということである。主の耳にはもう既に、宣教によって得た人々からの反響が届けられて、弟子たちを働きの成果から引き離す必要を覚えられたのだ。
酔いしれるべきではない。弟子たちの肉には危険なこと。それらの結果は、主が ※ 1節 「力と権威とをお授けになった」のであって、弟子たちの何かによったのではないから。
※ 私たちも又、弟子たちのようにこの世に派遣された者としての自覚を頂いて、御心に適った証人でありたい。
先週は、〈 長血をわずらう女の割り込み 〉によって、後回しにされていた 《 ヤイロの求め 》 が応えられた出来事に学んだ。
ヤイロは、娘が死にかけているので何とか「家に来ていただきたい」と、8章41、42節、一刻の猶予も許されない状況にいたが、予期せぬ割り込みによって主の手が取られている間に、彼が最も恐れていた悲報を聞く羽目に( 49節 )なった時のこと。
この悲報を傍らで聞かれた主が、50節 「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われたおことばから、三つのことを学んだ。
ⅰ 「恐れないで」とは ?
詳訳では、「驚きに捕えられては【恐怖に打ちのめされては】いけない」である。そのような事態で〈 驚き、恐怖 〉を抱くことがあっても、その虜にならないようにとの意味。
ⅱ 「恐れないで」いる為には ?
「ただ信じなさい」と仰るお方への信頼を、マルコの福音書 5章36節 ※ 「信じ続けなさい」と、初めの信仰同様の持続を。
何故なら、主が「これを聞」かれたのは、49節 「イエスがまだ話しておられるときに」であり、主は女と言葉を交わしておられた間も、ヤイロの祈りを覚えておられるから。
ⅲ 「恐れないで」いる結果は ?
主は、50節b 「そうすれば、娘は直ります」と宣言されたように、ご自身を死から甦らせる復活の主であることを証された。ラザロの許に行くのを遅らせたのも、彼を復活の証人とするためであったに同様。
結果がどうであれ、全て主の栄光の為に考えておられる。
※ いつでも聖父を信頼された主に倣って信じる信仰を、と !!
今朝は、主の働きが拡大していく中で、弟子たちを召し出した目的に適うべく 《 徐々にやがての日 》 、即ち、主が天に召されて後、宣教の担い手・後継者として立つ日に向けての訓練の一環として伝道に派遣された記事に注目したい。
弟子たちの本格的な派遣は、ペンテコステを待たなければならなかったが、彼らは召しへの自覚を持つ必要があった。
復活の主が、使徒の働き 1章4、5節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と仰っておられるように、主の証人として世に出て行くには、肉による無力さのままでは到底適うものではないからである。
この意味では、ここで派遣された弟子たちの霊的状態を見る限り、派遣に備えられた状態ではなかった。つい、8章25節の 《 あのガリラヤ湖上での出来事 》 では、荒れ狂う嵐を治められた主を見て、「この方はどういう方なのだろう。」と驚いた程度で、主との霊的経験が不確かだったのだから。
しかし、使徒となるべく召された弟子たち。彼らをご自身がなさったように、ご自身の働きを見よう見まねでも理解し、及ばずながら担い手として当然知っておくべき基本的な姿勢について手解きされる必要による、今朝の記事になる。
旧約時代、 《 預言者、王、祭司 》 に限って、彼らのその都度の働きの為に聖霊を注ぎ、使命を遂行させたのに同様、9章1節 「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになっ」て、派遣されたということである。
こうした背景を踏まえた上で、弟子たちが受けた訓練から、お互い、主の証人として弁( わきま )えるべき姿勢について考えたい。
① 2節 「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために」、6節 「出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した」、主の派遣目的の弁えを。
弟子たちは、忠実だった。主は人々の必要について、霊的必要の為に福音【罪からの救い】と、肉体的必要の為に病気の癒しをと命じられたが、主の指導の通りに自らを提供した。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」とある詩篇 23篇は、主を、私たち人としての霊肉の極めて現実的な必要を考慮されるお方として告白されている。
使徒の働き 2章に出て来る教会では、魂の救いの為の霊的養いと共に、人々の生活の必要の為にも心配りがなされた。
エルサレム教会の指導者ヤコブも手紙の中で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 2章17節」と忠告している。
② 3~5節 「イエスは、こう言われた。『 旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。・・・あなたがたを受け入れないばあいは・・・ 』 とは、悉( ことごと )く、派遣者を信頼すべきことを。
命じられた出で立ちは、何と質素で、軽装であることか !!
エリヤが三年六か月の日照りの時、主からの ※ 列王記 第一 17章4節 「烏( からす )に、そこであなたを養うように命じ」、9節 「そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」に同様、信仰のみ。
即ち、主を完全に当てにする信仰が必要であること。
受け入れられないという困難にも遭遇するであろうが、その事実にも恐れる必要もなく、その場合には、「彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」と。
異邦の土地を旅してから聖なる地に入る時、国境で足とか衣から汚れた塵を払う行為だったが、福音を受け入れないことへの戒め、警告を与える為の指導である。
③ 10節b 「それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた」と、霊的扱いに与るべきことを。
宣教の結果は、7~9節 「国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた・・・」を引き起こす程の成果を見た。主お一人でしておられた働きを、十二人の弟子たちがするのを見た人々が口々に、弟子たちを派遣した主を賞賛し、主に脅威を抱いたからである。
いつでもここが重要。この10節b 「それから」とは、 《 彼らの報告を聞いてから 》 ということである。主の耳にはもう既に、宣教によって得た人々からの反響が届けられて、弟子たちを働きの成果から引き離す必要を覚えられたのだ。
酔いしれるべきではない。弟子たちの肉には危険なこと。それらの結果は、主が ※ 1節 「力と権威とをお授けになった」のであって、弟子たちの何かによったのではないから。
※ 私たちも又、弟子たちのようにこの世に派遣された者としての自覚を頂いて、御心に適った証人でありたい。
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