聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 39


ルカの福音書8章40節~59節

先週は、宣教の拠点カぺナウムに ※ 40節 「帰られ」た主を待ちわびていた群衆に対応された二つの出来事の中の ※ 43節 「十二年の間長血をわずらっていた女」の癒しに学んだ。
主は彼女の信仰を48節で評価されたが、その信仰とは ?

ⅰ 44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」という遠慮と勇気ある信仰。
主が ※ 45節 「わたしにさわったのは、だれですか」 《 多くの人々が押し合いへし合いする中、他の人とは違った触り方をした人がいる 》 と言われた。
彼女の病気は、彼女に触れる物は全て汚れた物となるとされていた性質上、紛れ込む行為は控えられるべきだったが、律法の中心は愛との信仰で主に触れたのだ。

ⅱ 47節 「女は、隠しきれないと知って【詳訳: 気づかれないでは済まないのを見て】、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」潔い、謙りの信仰。
彼女は、主のその声を退けて、そっと帰って行く選択肢もあったが、帰るわけにはいかないとする信仰があった。
「震えながら進み出て」とある限り、自分への人目を恐れたのだが、恥と屈辱とを当然とする信仰だったのだ。主は、その彼女を敢えて御前に引き出し、しかも、そこに居合わせた「すべての民の前」に出させた。彼女に「さわったわけ」を証させることによって、彼女には肉体の癒しに勝る信仰の承認を得させ、群衆たちに、主を知る機会とされた。

※ いつでも正直に主の御前に出、主へのひた向きな信仰をと。


今朝は、主の帰りを待ちわびていたカぺナウムの人々の間で為されたもう一つの癒しの出来事、42節 「死にかけていた」ヤイロのひとり娘の癒しに注目したい。
実はこの娘の癒しは、先週学んだ〈 長血をわずらう女 〉よりも先に、主に届けられていた祈りだった。
何故なら彼は、岸辺で群衆たちに迎えられている( マコ 5・21 )主の許に、41節 「するとそこに」と飛び込んで来て、「ひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願っ」て受け入れられ、主は彼の家に向かっておられるところだったからである。
ところが、何と !! 先にお願いしていたにも拘らず、後回しになるという事態が起きたのだ。実に、この〈 長血をわずらう女の割り込み 〉というハプニングである。
主は、45節 「わたしにさわったのは、だれですか」、46節 「しかし、イエスは、『 だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから 』 と言われた」と、彼女を懇( ねんご )ろに扱っておられるではありませんか !!
会堂管理者ヤイロにとって、一刻の猶予も許されない願いであっただけに、いても立ってもいられない心境が想像出来る。
そうこうしている内に、ヤイロの思い煩いは現実となり、彼が最も恐れていた悲報を聞く羽目になった。それが、49節 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。『 あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。 』 」という伝言である。
その時の、50節 「これを聞いて、イエスは答えられた。『 恐れないで、ただ信じなさい・・・ 』 」に学びたい。

① 「恐れないで」とは ?

詳訳では、「驚きに捕えられては【恐怖に打ちのめされては】いけない」である。実際ヤイロは恐れた。娘が死んだと聞かされた時、ヤイロの心が穏やかである筈がない。その上、「もう、先生を煩わすことはありません」とまで言われてしまう始末。
主が「恐れないで」と言われたのは、そのような事態で〈 驚き、恐怖 〉を抱くことがあっても、その虜にならないようにとの忠告である。
エペソ人への手紙 4章26、27節 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないように」に通じる。悪しき感情に縛られる時、悪魔の介入によって、そこから抜け出られなくされる可能性と危険性があるから。

② 「恐れないで」いる為には ?

「ただ信じなさい」と仰るお方への信頼を、マルコの福音書 5章36節 ※ 「信じ続けなさい」と、初め同様持続させること。
何故なら、主が「これを聞」かれたのは、49節 「イエスがまだ話しておられるときに」であり、主は〈 長血のわずらいから解かれた女 〉と言葉を交わしておられた間も、ヤイロの祈りを忘れてしまってはおられないのだから。主は、彼女と真剣な話をしておられるその間中、気が気ではないであろうヤイロの心情を把握しておられた。
ヤイロの主への信頼は、闇雲にというのではない。ヤイロが「家に来ていただきたい」と懇願した時、受理された主を信頼したのだから。
その初め、主が娘の癒しを約束されたことばはないが、ヤイロの「家に来て」頂けさえすればと信じてのスタートだった。主を信じるとは、〈 いつ ? どの様に ? 結果は ? 〉の注文なしで、主のご真実を信頼してお任せすること。
ヤイロの信仰は試されたが、ラザロへの遅延が、「愛しておられた」故だったことから鑑みても、信じるのみ( ヨハネの福音書 11章5、6節 )。人々から、娘が亡くなったのだから、「先生を煩わすことはありません」と言われた時、ヤイロはどうすべきだったのだろう ? 主に期待した信仰の持続である。
使いの者は、娘の死にこだわり、もう、結構ですと、主が出掛けられた意図の最後を見ようとはしなかった。
そのような事態を迎えても、主を信頼する信仰は、尚主を期待するのだ。主の為さることに委ねるのが信仰だから。

③ 「恐れないで」いる結果は ?

主は、50節b 「そうすれば、娘は直ります。」と宣言されたように、実際的癒しだった。主が、52節 「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と仰った時、娘の死を否定されたのではない。死んでいるが起き上がると宣言された。死から甦らせる復活の主であることを証する為に、この出来事を用いられた。ラザロの許に行くのを遅らせたのも、彼を復活の証人とするためであったのに同様。
結果を全て、主の栄光の為に考えておられる。

※ いつでも聖父を信頼された主に倣って信じる信仰を !!

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