ルカの福音書8章40節~48節
先週は、主が ※ 26節 「・・・ゲラサ人の地方」で ※ 27節 「悪霊につかれている男」を救いに導かれた出来事に注目した。
ⅰ 主は「男」を救われるのに、どのように扱われたのか ?
この男は ※ 27節 「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住」み、29節c 「鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた」。主は、彼の生活の惨状そのものにではなく、彼をしてそのようにさせている究極的原因に目をつけ、その一点に触れられた。
ⅱ 主が「男」から悪霊を追放した結果 ?
a. 何と男は !! 35節c 「正気に返」り、38節 「お供をしたい」と願う人と変えられた ⇒ コリント人への手紙 第二 5章13~15節。
b. 34節 「( 豚を )飼っていた者たち」、この出来事を知らされた ※ 35節 「人々」、36節 「目撃者たち」、総称して ※ 37節 「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」という拒絶。
何故 ? 気の毒な狂人が救われて「正気に返」るよりも、自分たちの平穏無事を願ったからだ。
主を、自分たちの生活を脅かす者でしかなく、悪霊からの解放を与える救い主とは考えなかった、求めなかったからだ。何と !! 悲しいことだが、これがこの世の現実。
※ 37節c 「そこで」と主は、退ける所には留まらず、救われた男を家に帰らせて証人として留まらせ、彼にその町の宣教を委ねられた。彼は直ちに39節 「出て行って・・・町中に言い広めた」と、ここに宣教の基本的理念があると。
今朝は、悪霊を追放して癒された男を残し、その後直ちに宣教の拠点カぺナウムに ※ 40節 「帰られ」た主が、主の帰りを待ちわびていた群衆に対応された二つの出来事の中の ※ 43節 「十二年の間長血をわずらっていた女」の癒しに学びたい。
今一つの出来事は 《 ヤイロの娘の癒し 》 で、来週学びますが、主が会堂管理者ヤイロの切なる願いに応じて ※ 42節 「お出かけにな」った時、みもとに押し迫って来た群衆の中の一人、必死に主を求めて来たのが、今朝学ぶ「長血をわずらった女」。
彼女は何と、素晴らしい経験に与ることになる !!
44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」と。その上、48節 「イエスは彼女に言われた。『 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。 』 」と、主から今後の保証まで頂いて、全く新しい生涯に導かれた。
主が評価された 《 彼女の信仰 》 とは ?
① 44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」という、遠慮と勇気ある信仰。
テモテへの手紙 第二 1章7節には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」とあるように、極めて均衡のとれた信仰の姿勢である。
彼女の「長血」という病気は、彼女が座るすべての物が汚れた物とされ、その汚れた物に触れただけでも皆汚れ、触れたその人は「衣服を洗い、水を浴びる」必要があった。
律法では、明らかに慎まなければならない。しかし、彼女には信仰があった。その信仰とは ? 律法の心を知る信仰、即ち、律法の中心は愛であること。
それを、主が ※ 45節、「わたしにさわったのは、だれですか」 《 多くの人々が押し合いへし合いする中、他の人とは違った触り方をした人がいる 》 と言われた、そのお心で知る。
その時の人々の反応は、45節b 「みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『 先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです 』 」と、誰かと尋ねられても、特定の人をあげることは出来そうにもありません、だった。
この時人々は、そのように尋ねられる主に特別な雰囲気を感じたようだ。実際、群衆が互いに押し合うようにしてついて行っているのだから、私です・・・と、何人もの人々が言っても良いところ。にも拘らず、「みな自分ではないと言った」には、私だと言えば、何か不利になるのではないかと警戒した様子が感じられないだろうか。しかし人々の警戒心は邪推に過ぎず、主は真剣な眼差しと感動をもって触れた人を捜され、出会いたく願ってくださったのだ。
ご自身では、誰が触ったのか知っておられたが、直接出て来させて、会いたいと願ってくださったのだ。律法の心が何であるかを知って、即ち、主とはどのようなお方であるかを知って近づいて来る信仰を喜ばれたのだ。
もし咎められるのであれば正して頂こう、しかし「 『 お着物にさわることでもできれば、きっと直る 』 と考えていたから・・・ マルコの福音書 5章28節」という近づき方。
② 47節 「女は、隠しきれないと知って【詳訳: 気づかれないでは済まないのを見て】、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」潔い、謙りの信仰。
彼女は、主のその声を退けて、そっと帰って行く選択肢もあったが、帰るわけにはいかないとする信仰があった。
これこそ、彼女が純粋な動機をもって近づいた証である。
彼女をして「隠しきれないと知って」と思わせたのは、必死な信仰に応えてくださった主への無礼は許されないとの思いからである。「震えながら進み出て」とある限り、自分への人目を恐れつつも、恥と屈辱とは当然とする信仰。
主は、単なる病からの癒しを与えることを以って良しとされるお方ではない。究極は、あくまでも魂の救いであり、その確かさにある。その為に、敢えて彼女を御前に引き出されたのだ。しかも、そこに居合わせた全ての人がそれと分かる所に出させたのだ。「真実を余すところなく打ち明けた。 マルコの福音書 5章33節」彼女が「主にさわったわけ」を明らかにすることによって、彼女に肉体の癒しに勝る信仰の承認を得させ、群衆たちにも、信仰の何なるかを明確にされた。
※ 少なからず群衆たちは、主が一言、46節 「だれかが・・・」と言われて怖じ気付いてしまい、正直に出ようとする者は誰一人いなかった。何をどう言われるのかが心配だからであるが、いつでも体裁を繕う者には霊的祝福は皆無。いつでも正直に主の御前に出る、主へのひた向きな信仰で出る者でありたい !!
先週は、主が ※ 26節 「・・・ゲラサ人の地方」で ※ 27節 「悪霊につかれている男」を救いに導かれた出来事に注目した。
ⅰ 主は「男」を救われるのに、どのように扱われたのか ?
この男は ※ 27節 「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住」み、29節c 「鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた」。主は、彼の生活の惨状そのものにではなく、彼をしてそのようにさせている究極的原因に目をつけ、その一点に触れられた。
ⅱ 主が「男」から悪霊を追放した結果 ?
a. 何と男は !! 35節c 「正気に返」り、38節 「お供をしたい」と願う人と変えられた ⇒ コリント人への手紙 第二 5章13~15節。
b. 34節 「( 豚を )飼っていた者たち」、この出来事を知らされた ※ 35節 「人々」、36節 「目撃者たち」、総称して ※ 37節 「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」という拒絶。
何故 ? 気の毒な狂人が救われて「正気に返」るよりも、自分たちの平穏無事を願ったからだ。
主を、自分たちの生活を脅かす者でしかなく、悪霊からの解放を与える救い主とは考えなかった、求めなかったからだ。何と !! 悲しいことだが、これがこの世の現実。
※ 37節c 「そこで」と主は、退ける所には留まらず、救われた男を家に帰らせて証人として留まらせ、彼にその町の宣教を委ねられた。彼は直ちに39節 「出て行って・・・町中に言い広めた」と、ここに宣教の基本的理念があると。
今朝は、悪霊を追放して癒された男を残し、その後直ちに宣教の拠点カぺナウムに ※ 40節 「帰られ」た主が、主の帰りを待ちわびていた群衆に対応された二つの出来事の中の ※ 43節 「十二年の間長血をわずらっていた女」の癒しに学びたい。
今一つの出来事は 《 ヤイロの娘の癒し 》 で、来週学びますが、主が会堂管理者ヤイロの切なる願いに応じて ※ 42節 「お出かけにな」った時、みもとに押し迫って来た群衆の中の一人、必死に主を求めて来たのが、今朝学ぶ「長血をわずらった女」。
彼女は何と、素晴らしい経験に与ることになる !!
44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」と。その上、48節 「イエスは彼女に言われた。『 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。 』 」と、主から今後の保証まで頂いて、全く新しい生涯に導かれた。
主が評価された 《 彼女の信仰 》 とは ?
① 44節 「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」という、遠慮と勇気ある信仰。
テモテへの手紙 第二 1章7節には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」とあるように、極めて均衡のとれた信仰の姿勢である。
彼女の「長血」という病気は、彼女が座るすべての物が汚れた物とされ、その汚れた物に触れただけでも皆汚れ、触れたその人は「衣服を洗い、水を浴びる」必要があった。
律法では、明らかに慎まなければならない。しかし、彼女には信仰があった。その信仰とは ? 律法の心を知る信仰、即ち、律法の中心は愛であること。
それを、主が ※ 45節、「わたしにさわったのは、だれですか」 《 多くの人々が押し合いへし合いする中、他の人とは違った触り方をした人がいる 》 と言われた、そのお心で知る。
その時の人々の反応は、45節b 「みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『 先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです 』 」と、誰かと尋ねられても、特定の人をあげることは出来そうにもありません、だった。
この時人々は、そのように尋ねられる主に特別な雰囲気を感じたようだ。実際、群衆が互いに押し合うようにしてついて行っているのだから、私です・・・と、何人もの人々が言っても良いところ。にも拘らず、「みな自分ではないと言った」には、私だと言えば、何か不利になるのではないかと警戒した様子が感じられないだろうか。しかし人々の警戒心は邪推に過ぎず、主は真剣な眼差しと感動をもって触れた人を捜され、出会いたく願ってくださったのだ。
ご自身では、誰が触ったのか知っておられたが、直接出て来させて、会いたいと願ってくださったのだ。律法の心が何であるかを知って、即ち、主とはどのようなお方であるかを知って近づいて来る信仰を喜ばれたのだ。
もし咎められるのであれば正して頂こう、しかし「 『 お着物にさわることでもできれば、きっと直る 』 と考えていたから・・・ マルコの福音書 5章28節」という近づき方。
② 47節 「女は、隠しきれないと知って【詳訳: 気づかれないでは済まないのを見て】、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した」潔い、謙りの信仰。
彼女は、主のその声を退けて、そっと帰って行く選択肢もあったが、帰るわけにはいかないとする信仰があった。
これこそ、彼女が純粋な動機をもって近づいた証である。
彼女をして「隠しきれないと知って」と思わせたのは、必死な信仰に応えてくださった主への無礼は許されないとの思いからである。「震えながら進み出て」とある限り、自分への人目を恐れつつも、恥と屈辱とは当然とする信仰。
主は、単なる病からの癒しを与えることを以って良しとされるお方ではない。究極は、あくまでも魂の救いであり、その確かさにある。その為に、敢えて彼女を御前に引き出されたのだ。しかも、そこに居合わせた全ての人がそれと分かる所に出させたのだ。「真実を余すところなく打ち明けた。 マルコの福音書 5章33節」彼女が「主にさわったわけ」を明らかにすることによって、彼女に肉体の癒しに勝る信仰の承認を得させ、群衆たちにも、信仰の何なるかを明確にされた。
※ 少なからず群衆たちは、主が一言、46節 「だれかが・・・」と言われて怖じ気付いてしまい、正直に出ようとする者は誰一人いなかった。何をどう言われるのかが心配だからであるが、いつでも体裁を繕う者には霊的祝福は皆無。いつでも正直に主の御前に出る、主へのひた向きな信仰で出る者でありたい !!
この記事へのコメント