ルカの福音書8章26節~39節
先週は、主の ※ 22節 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従って船出したガリラヤ湖上でのこと、突風に見舞われて慌てた弟子たちが、25節 詳訳 「なぜ、そんなにこわがるのか。わたしの真実と誠実に対するあなたがたの信頼、確信は、どこにあるのか」と正されたおことばに学んだ。
ⅰ 22節 「湖の向こう岸へ渡ろう」という計画は、主からの「さあ」との声掛けに従った船出だったが、行動の一つ一つが、主の「さあ」があってのことだとの信仰はあるのか ?
恐れなき信仰生活の秘訣は、「さあ」との御声に聞き従った上でのこととの確信にある !! 私たちは、主の声を聞いてから行動しているだろうか ? との自問自答が肝要。
ⅱ 主の「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従っての行く手が、必ずしも順境と限らず、むしろ弟子たちに立ちはだかった「突風」、逆境に遭遇する可能性有りとの信仰は ?
ⅲ 25節 「弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『 風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう 』 」には、彼らが共におられる主を知らなかったことが意味されているが、主を知る信仰は ?
何故、そうなのか ? ヨハネの福音書 6章26節 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」にある。徴( しるし )は救い主としての証であるが、彼らの関心は、地上的な必要の満たしにあるだけで、天的・霊的関心が希薄だったから、主を知るには至らなかった。ヨハネの福音書 17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」にあると覚えたい。
※ 果たして私の信仰は ? 23節の主の安息にあやかりたい、と。
今朝は、主が望まれた ※ 26節 「ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着」くや否や、出会われた一人の ※ 27節 「悪霊につかれている男」を救いに導かれた出来事に注目したい。
① 主は「男」を救われるのに、どのように扱われたのか ?
この男は「悪霊につかれ」、27節 「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」、29節b 「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた」とある。
悪霊が一人の人を占拠する時、その恐ろしさは、この彼の野獣化している生活振りに顕著であるが、主は、彼の生活の惨状そのものにではなく、彼をしてそのようにさせている究極的原因に目をつけ、その一点に触れられた。
何故ならば、彼は考えることも、願うことも、行動の全て、完全に悪霊の支配下に置かれている哀れな人でしかない為、主が直接相手にしなければならないのは、彼ではなく、彼を意のままにしている内住の悪霊と判断されたから。
主は目の前に現れた、27節 「この町の者で悪霊につかれている男」に向かって、29節 「汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられた」のは、こうした理由からである。
その為、28節 「叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『 いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください 』 」と言ったのは悪霊で、悲鳴を上げている。
主は直ちに ※ 30節 「何という名か」と、悪霊と直接対決され、31~33節のように、男性から悪霊を追放された。
レギオンについては、欄外の説明によると ※ 「大ぜい・多数」の意で、その勢いは、悪霊が豚に入った結果を見ると、おびただしい豚( マルコの福音書 5章13節では、「二千匹ほど」 )が ※ 33節 「いきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」とある。
男が縛られていたのは、悪霊のこの威力によってである。
悪魔は、主が「いと高き神の子」であると知り、又、やがてこのお方によって滅ぼされること、それが確実だということも知っていた。唯、31節 「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った」のは、そこは彼らがやがて行かねばならぬ所で、今しばらくは御免だ !! せめて今だけはと手加減を求めている。
確かに悪霊は、黙示録 12章12節 「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下った」とあり、『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 127pで、 “ ( 悪魔の )活動が許されているのは「短い時」であり、彼は自分の「時が短い」ことを知っている。彼の活動は時間的にも空間的にも限定されている。しかし神の支配は「天」の御座から永遠に続き、時空を超えた無限の栄光に満ちている ” と言っている。
主は、悪魔によっても、「いと高き方」と知られている。
聖霊に満たされたパウロも又、使徒の働き 16章16~18節( ※ ピリピ宣教 )で主同様、17節の、「占いの霊につかれた若い女奴隷」に悪霊の働きを見て、18節 「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じている。
② 主が「男」から悪霊を追放した結果 ?
a. 何と男は !! 35節b 「・・・イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた」と我に返り、その開口一番、38節には「お供をしたいとしきりに願った」と、感動の余り、生涯主にお従いすることを願う人と変えられた ⇒ コリント人への手紙 第二 5章14、15節。
悪霊からの解放は、あのマグダラのマリヤがそうであったように 《 主と生涯を共にしたいとの願いを起こさせる至上の経験 》 なのであって、決して驚くことではない。
b. 34節 「( 豚を )飼っていた者たち」、この出来事を知らされた ※ 35節 「人々」、36節 「目撃者たち」、総称して ※ 37節 「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」という拒絶。
何故 ? 29節によると、人々は、悪霊つきの彼を拘束して看視する手間はあったとしても、生活を乱されるよりは未だましだとしたからだ。気の毒な狂人が救われて「正気に返」るよりも、自分たちの平穏無事を願ったからだ。
主を、自分たちの生活を脅かす者でしかなく、悪霊からの解放を与える救い主とは考えなかった、求めなかったからだ。何と !! 悲しいことだが、これがこの世の現実。
※ 37節c 「そこで、イエスは」とあるが、退ける所には留まらず、救われた男を、39節 「家に帰って・・・」と証人として留まらせ、彼にその町の宣教を委ねられた。彼は直ちに「出て行って・・・町中に言い広めた」とは、宣教の基本的理念である。
先週は、主の ※ 22節 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従って船出したガリラヤ湖上でのこと、突風に見舞われて慌てた弟子たちが、25節 詳訳 「なぜ、そんなにこわがるのか。わたしの真実と誠実に対するあなたがたの信頼、確信は、どこにあるのか」と正されたおことばに学んだ。
ⅰ 22節 「湖の向こう岸へ渡ろう」という計画は、主からの「さあ」との声掛けに従った船出だったが、行動の一つ一つが、主の「さあ」があってのことだとの信仰はあるのか ?
恐れなき信仰生活の秘訣は、「さあ」との御声に聞き従った上でのこととの確信にある !! 私たちは、主の声を聞いてから行動しているだろうか ? との自問自答が肝要。
ⅱ 主の「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従っての行く手が、必ずしも順境と限らず、むしろ弟子たちに立ちはだかった「突風」、逆境に遭遇する可能性有りとの信仰は ?
ⅲ 25節 「弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『 風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう 』 」には、彼らが共におられる主を知らなかったことが意味されているが、主を知る信仰は ?
何故、そうなのか ? ヨハネの福音書 6章26節 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」にある。徴( しるし )は救い主としての証であるが、彼らの関心は、地上的な必要の満たしにあるだけで、天的・霊的関心が希薄だったから、主を知るには至らなかった。ヨハネの福音書 17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」にあると覚えたい。
※ 果たして私の信仰は ? 23節の主の安息にあやかりたい、と。
今朝は、主が望まれた ※ 26節 「ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着」くや否や、出会われた一人の ※ 27節 「悪霊につかれている男」を救いに導かれた出来事に注目したい。
① 主は「男」を救われるのに、どのように扱われたのか ?
この男は「悪霊につかれ」、27節 「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」、29節b 「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた」とある。
悪霊が一人の人を占拠する時、その恐ろしさは、この彼の野獣化している生活振りに顕著であるが、主は、彼の生活の惨状そのものにではなく、彼をしてそのようにさせている究極的原因に目をつけ、その一点に触れられた。
何故ならば、彼は考えることも、願うことも、行動の全て、完全に悪霊の支配下に置かれている哀れな人でしかない為、主が直接相手にしなければならないのは、彼ではなく、彼を意のままにしている内住の悪霊と判断されたから。
主は目の前に現れた、27節 「この町の者で悪霊につかれている男」に向かって、29節 「汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられた」のは、こうした理由からである。
その為、28節 「叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『 いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください 』 」と言ったのは悪霊で、悲鳴を上げている。
主は直ちに ※ 30節 「何という名か」と、悪霊と直接対決され、31~33節のように、男性から悪霊を追放された。
レギオンについては、欄外の説明によると ※ 「大ぜい・多数」の意で、その勢いは、悪霊が豚に入った結果を見ると、おびただしい豚( マルコの福音書 5章13節では、「二千匹ほど」 )が ※ 33節 「いきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」とある。
男が縛られていたのは、悪霊のこの威力によってである。
悪魔は、主が「いと高き神の子」であると知り、又、やがてこのお方によって滅ぼされること、それが確実だということも知っていた。唯、31節 「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った」のは、そこは彼らがやがて行かねばならぬ所で、今しばらくは御免だ !! せめて今だけはと手加減を求めている。
確かに悪霊は、黙示録 12章12節 「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下った」とあり、『 小羊の王国 岡山英雄 著 』 127pで、 “ ( 悪魔の )活動が許されているのは「短い時」であり、彼は自分の「時が短い」ことを知っている。彼の活動は時間的にも空間的にも限定されている。しかし神の支配は「天」の御座から永遠に続き、時空を超えた無限の栄光に満ちている ” と言っている。
主は、悪魔によっても、「いと高き方」と知られている。
聖霊に満たされたパウロも又、使徒の働き 16章16~18節( ※ ピリピ宣教 )で主同様、17節の、「占いの霊につかれた若い女奴隷」に悪霊の働きを見て、18節 「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じている。
② 主が「男」から悪霊を追放した結果 ?
a. 何と男は !! 35節b 「・・・イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた」と我に返り、その開口一番、38節には「お供をしたいとしきりに願った」と、感動の余り、生涯主にお従いすることを願う人と変えられた ⇒ コリント人への手紙 第二 5章14、15節。
悪霊からの解放は、あのマグダラのマリヤがそうであったように 《 主と生涯を共にしたいとの願いを起こさせる至上の経験 》 なのであって、決して驚くことではない。
b. 34節 「( 豚を )飼っていた者たち」、この出来事を知らされた ※ 35節 「人々」、36節 「目撃者たち」、総称して ※ 37節 「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」という拒絶。
何故 ? 29節によると、人々は、悪霊つきの彼を拘束して看視する手間はあったとしても、生活を乱されるよりは未だましだとしたからだ。気の毒な狂人が救われて「正気に返」るよりも、自分たちの平穏無事を願ったからだ。
主を、自分たちの生活を脅かす者でしかなく、悪霊からの解放を与える救い主とは考えなかった、求めなかったからだ。何と !! 悲しいことだが、これがこの世の現実。
※ 37節c 「そこで、イエスは」とあるが、退ける所には留まらず、救われた男を、39節 「家に帰って・・・」と証人として留まらせ、彼にその町の宣教を委ねられた。彼は直ちに「出て行って・・・町中に言い広めた」とは、宣教の基本的理念である。
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