聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 36


ルカの福音書8章22節~25節

先週は、 《 種蒔きのたとえ話 》 での「みことばを聞く」態度に関連して、16節 「あかりをつけ」る人としてご自身を現された主が、みことばであるその「あかり」を明らかにしたように、弟子たちも又、同様に、と指導された点に注目。

ⅰ 16節 「それを器で隠したり、寝台の下に置」かない生活。
「隠」すとは、自分の為にだけ「あかり」の恵みを保つ姿で、その「あかり」による喜びが侵害されたくない、関わりによって被る煩( わずら )わしさから逃れ、自らの身の安全のみを考える。
「寝台の下に置」くことについて、ある人は、「寝台」とは〈 休息、安楽、怠惰、放縦 〉の意と言っている。みことばに生きる時の摩擦を嫌い、妥協策を取り、従うことに躊躇して、主の光を放つ機会を失わせる生活態度。

ⅱ この勧告を無視したりと、主から聞いているみことばに対する怠惰さには、必ずその刈り取りがあること。
a. 17節 ⇒ 「器で隠したり、寝台の下に置いたり」の生活の実態は必ず明るみにされる。信仰生活に覇気が無くなり、霊的喜びが無くなることは、遅かれ早かれ明らかになると。
b. 18節 ⇒ みことばを魂への重荷から真実に伝えるなら、その人は、みことばから新たな啓示を得るが、自分だけのものにしている人は、みことばの真理が分からなくなる。

ⅲ 21節 「神のことばを聞いて行う人」となることによって作られる主との霊的関係こそが、生まれながらの血縁関係よりも名誉なことなのだと諭された。

※ 18節 「聞き方に注意しなさい」と仰る主のお心を粗末にする軽はずみな生活態度には十分注意したい、と。


今朝は、主が、弟子たちと共に ※ 26節 「ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に」向かわれる途中、ガリラヤ湖上で突風に見舞われた時に、24節 「私たちはおぼれて死にそうです」と慌てた弟子たちの信仰を正された記事に注目したい。
弟子たちを正された時の主のおことばは、25節 詳訳 「なぜ、そんなにこわがるのか。わたしの真実と誠実に対するあなたがたの信頼、確信は、どこにあるのか」だった。
23節 「突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」が、もしお互いも又、24節 「彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『 先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです 』 」と叫んでいる自らに気付いたならば、先ず吟味すべきは、《 あなたがたの信仰・主の真実と誠実に対する信頼、確信は何処にあるのか ? 》 の問い掛けに如何に応えるか、ということである。具体的に・・・

① 22節 「湖の向こう岸へ渡ろう」という計画は、「さあ」との声掛けに従った船出だったが、行動の一つ一つが、主からの「さあ」があってのことだとの信仰はあるのか ?

もし単なる、自分たちの思い付き、勝手気ままな遊び心、好奇心によったのであれば、不安は付き物。しかし、主に従った上でのことだと確信できれば、怖がる必要はない。
使徒の働き 5章38b、39節 「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう」は真理であり、この何れかが鍵。
恐れなき信仰生活の秘訣は、「さあ」との御声に聞き従った上での今日なのかどうかにある !!
私たちは主の声を聞いてから行動しているだろうか ?
使徒の働き 16章6~10節、6節 「聖霊によって禁じられたので」、7節 「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」、10節 「神が私たちを招いて、・・・させるのだ、と確信した」との内的確信に基づいての行動。一行が6節で、「ガラテヤの地方を通った」とある記事について触れたことがあるが、ガラテヤ人への手紙 4章13節 「私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした」とあるように、健康的課題が生じた為に、予定コースの変更があったようだ。
主が御心を行われるのに、あらゆる事態を御手に収め、「さあ」と導かれる。パウロのこの「確信したから」との霊的経験こそ、前途に何があろうと恐れ無しとする鍵 !!

② 主からの、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」に従って行く先々で、必ずしも順境とは限らず、むしろ、弟子たちに立ちはだかった「突風」のように逆境に遭遇するとの信仰は ?

主は、ヨハネの福音書 15章18~21節 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。・・・しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います」と言われた。
主が、24節 「そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし」と、突風によって舟が沈没しそうになっているにも拘らず熟睡しておられたのは、その信仰的理解の故である。
使徒たちには、その信仰があった。ペテロの手紙 第一 4章12、13節 「・・・燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」、ピリピ人への手紙 1章29節 詳訳 「・・・キリストのための苦しみをも受ける【という特権を】も与えられている」と。

③ 25節 「・・・弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『 風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。 』 」には、彼らが共におられる主を知らないことが意味されているが、主を知る信仰は ?

これまで弟子たちは、主の救い主としての徴( しるし )を何度も、又、様々な形で見て来ている !! にも拘らず、「お命じになれば従うとは、いったいこの方は・・・」と、驚く様こそ驚き !!
何故、そうなのか ? ヨハネの福音書 6章26節 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」にある。徴は救い主としての証であるが、彼らの関心は、地上的な必要の満たしにあるだけで、天的・霊的関心が希薄だから。
弟子たちでさえ然り。もし私たちにおいても、もし地上的な事柄に縛られ、身も心もその問題からの解放のみを求めて明け暮れしているならば、主を知るという霊的関心を抱く生活には至らない。ヨハネの福音書 17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」にあると覚えたい。

※ 果たして私の信仰は ? 23節で眠っておられた主の安息にあやかりたい。

この記事へのコメント