ルカの福音書8章16節~21節
先週は、4節 《 種蒔きのたとえ話 》 から、「種は神のことばです」、種が蒔かれた四つの土地( 12~15節 )は、神のみとばを聞く聞き手の心、種の生長と結実の有無は、それら土地の状態如何で決まると学んだ。それは「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く・・・ へブル人への手紙 4章12節」とあるからであり、このたとえ話の目的は、この一点にあると。
主は、※ 15節 詳訳 「良い地―みことばを聞いたなら、正しい〈 気高い、潔い、立派な 〉心、これをしっかりと保ち、忍耐をもって、着実に実を結ばせる者」を期待しておられる。
ⅰ 12節 「聞いたが」と、みことばを一向に受け付けない頑( かたく )なさと、心の問題に無頓着である姿勢とは対極にある。
ⅱ 13節 「聞いたときには喜んでみことばを受け入れる」が、「根がない」とは、霊的に扱われることが皆無で、みことばによる、主との霊的・生命的関係がない状態、「試練のときになると、身を引いて」、6節 「水分がなかったので、枯れてしまった」という惨めさとは対極にある。
ⅲ 14節 「聞きはしたが、とかく( あれやこれや )しているうちに」と、聖霊による明確な指示が与えられながらも、優柔不断な時間を過ごしてしまう態度のこと。その隙に、詳訳 「生活の心配や富や、快楽に押さえつけられ【息の根を止められて】、実の熟さない〈 成熟しない、完成しない 〉者たちのことである」という、これも対極にある。
※ 「良い地」の特色は、潔さ 《 聖霊の声に瞬時、従う心 》 と、従うことに伴う忍耐に生きることにある。みことばによって扱われる道を選択しては明け渡す日々に心したい、と。
今朝は、先週学んだ 《 種蒔きのたとえ話 》 での「みことばを聞く」態度に関連して、18節 「だから、聞き方に注意しなさい」、21節 「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」と、聞いたみことばをどのように扱うかについて指導しておられる点に注目したい。
その指導とは ?
種蒔きのたとえ話の「種を蒔く人」は主ご自身だった。
16節では、「あかりをつけ」る人として、ご自身を表しておられるが、主は、「あかり」である神の国の教えを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」せず、「燭台の上に置」いて、「はいって来る人々に、その光が見える」ようにと、真理を、群衆たちや弟子たちに明らかにしていると言われた。
指導とは、ここである。即ち、主が真理を明らかにしたように、今度は弟子たちも又、同様にするようにとの勧めである。
この聖句の並行記事である ※ マタイの福音書 5章15、16節を見ると明白。「・・・このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」である。
この「人々の前で輝かせ」というのが、既に、ルカでも触れたが、ここ 『 マタイの福音書 』 では、「枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます」とあるように 《 聞いたみことばを隠してはならない 》 という忠告である。続く、「あなたがたの良い行い」とは、マタイの福音書 5章43~48節がその解説であるが、48節 「天の父が完全なように、完全でありなさい」とある、44節 「自分の敵を愛」する愛の動機をもっての生活のこと。
ルカに戻って、具体的に考えたい !!
① 16節、「それを器で隠したり、寝台の下に置いたり」しない生活とは ?
この「隠」すとは、自分の為にだけその「あかり」の恵みを保っておこうとする姿を表している。自分の内に灯( とも )された灯し火が、外からの圧力によって吹き消されることがないようにとの気遣いのみに終始する態度。自らの内に灯された灯し火によって喜ぶ喜びが侵害されたくない、関わることによって被ることになる煩( わずら )わしさから逃れたい、自らの身の安全のみを考える。隣人に 《 この灯し火、恵みを 》 との関心もなければ、重荷もない、極めて自分本位の生き方、消極的な生活態度のこと。
又、「寝台の下に置」くことについて、ある人は、「寝台」とは、休息、安楽、怠惰、放縦のことであると言っているが、このことからも、同様の事が言える。みことばは、罪人の肉的な価値観とは相反する性質である為、みことばを一たび伝えようものならば、何らかの抵抗が生じる。その摩擦を嫌い、妥協して調和を取ろうとし、従うことに躊躇したりして、主の光を放つ機会を失わせる生活態度。
② この勧告を無視したりと、主から聞いているみことばに対する怠惰さには、必ずその刈り取りがあること。
a. 17節 「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません」との事実に注意すべきこと。
即ち、人間的な何らかの妥協・怠惰によって、みことばを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」していると、その生活の実態は、必ず明るみに出されると。どのような形で ? 信仰生活に覇気が無くなり、霊的喜びが無くなることは、遅かれ早かれ明らかになると。
b. 18節 「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる」こと。
何と厳粛なことでしょう。
即ち、みことばを魂への重荷をもって真実に伝えるなら、その人は、みことばに新たな啓示が与えられ、より深く真理に目覚め、分かるようにされて行く。しかし、自分だけのものにしている人は、みことばの真理が分からなくなる。
これらの勧めは、マルコの福音書 8章35節 「それを失い、・・・それを救うのです」と、聖書に生きる者の原則的な法則である。
③ 主ご自身と持つべき生命的関係は、血縁関係にではなく、21節 「神のことばを聞いて行う人たち」にあること。
主が母マリヤを退けておられる訳ではない。ある意味で、群衆同様、母マリヤにも、霊的関係こそが生まれながらの関係よりも名誉なことなのだと諭す機会とされたのでは ?
恐らく、主の人望が厚くなるにつれて、肉親関係を羨( うらや )む人々が出て来ることを洞察されてのことかも知れない。
※ 18節 「聞き方に注意しなさい」と仰る主のお心を粗末にする軽はずみな生活態度には、十分注意したい。
先週は、4節 《 種蒔きのたとえ話 》 から、「種は神のことばです」、種が蒔かれた四つの土地( 12~15節 )は、神のみとばを聞く聞き手の心、種の生長と結実の有無は、それら土地の状態如何で決まると学んだ。それは「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く・・・ へブル人への手紙 4章12節」とあるからであり、このたとえ話の目的は、この一点にあると。
主は、※ 15節 詳訳 「良い地―みことばを聞いたなら、正しい〈 気高い、潔い、立派な 〉心、これをしっかりと保ち、忍耐をもって、着実に実を結ばせる者」を期待しておられる。
ⅰ 12節 「聞いたが」と、みことばを一向に受け付けない頑( かたく )なさと、心の問題に無頓着である姿勢とは対極にある。
ⅱ 13節 「聞いたときには喜んでみことばを受け入れる」が、「根がない」とは、霊的に扱われることが皆無で、みことばによる、主との霊的・生命的関係がない状態、「試練のときになると、身を引いて」、6節 「水分がなかったので、枯れてしまった」という惨めさとは対極にある。
ⅲ 14節 「聞きはしたが、とかく( あれやこれや )しているうちに」と、聖霊による明確な指示が与えられながらも、優柔不断な時間を過ごしてしまう態度のこと。その隙に、詳訳 「生活の心配や富や、快楽に押さえつけられ【息の根を止められて】、実の熟さない〈 成熟しない、完成しない 〉者たちのことである」という、これも対極にある。
※ 「良い地」の特色は、潔さ 《 聖霊の声に瞬時、従う心 》 と、従うことに伴う忍耐に生きることにある。みことばによって扱われる道を選択しては明け渡す日々に心したい、と。
今朝は、先週学んだ 《 種蒔きのたとえ話 》 での「みことばを聞く」態度に関連して、18節 「だから、聞き方に注意しなさい」、21節 「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」と、聞いたみことばをどのように扱うかについて指導しておられる点に注目したい。
その指導とは ?
種蒔きのたとえ話の「種を蒔く人」は主ご自身だった。
16節では、「あかりをつけ」る人として、ご自身を表しておられるが、主は、「あかり」である神の国の教えを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」せず、「燭台の上に置」いて、「はいって来る人々に、その光が見える」ようにと、真理を、群衆たちや弟子たちに明らかにしていると言われた。
指導とは、ここである。即ち、主が真理を明らかにしたように、今度は弟子たちも又、同様にするようにとの勧めである。
この聖句の並行記事である ※ マタイの福音書 5章15、16節を見ると明白。「・・・このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」である。
この「人々の前で輝かせ」というのが、既に、ルカでも触れたが、ここ 『 マタイの福音書 』 では、「枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます」とあるように 《 聞いたみことばを隠してはならない 》 という忠告である。続く、「あなたがたの良い行い」とは、マタイの福音書 5章43~48節がその解説であるが、48節 「天の父が完全なように、完全でありなさい」とある、44節 「自分の敵を愛」する愛の動機をもっての生活のこと。
ルカに戻って、具体的に考えたい !!
① 16節、「それを器で隠したり、寝台の下に置いたり」しない生活とは ?
この「隠」すとは、自分の為にだけその「あかり」の恵みを保っておこうとする姿を表している。自分の内に灯( とも )された灯し火が、外からの圧力によって吹き消されることがないようにとの気遣いのみに終始する態度。自らの内に灯された灯し火によって喜ぶ喜びが侵害されたくない、関わることによって被ることになる煩( わずら )わしさから逃れたい、自らの身の安全のみを考える。隣人に 《 この灯し火、恵みを 》 との関心もなければ、重荷もない、極めて自分本位の生き方、消極的な生活態度のこと。
又、「寝台の下に置」くことについて、ある人は、「寝台」とは、休息、安楽、怠惰、放縦のことであると言っているが、このことからも、同様の事が言える。みことばは、罪人の肉的な価値観とは相反する性質である為、みことばを一たび伝えようものならば、何らかの抵抗が生じる。その摩擦を嫌い、妥協して調和を取ろうとし、従うことに躊躇したりして、主の光を放つ機会を失わせる生活態度。
② この勧告を無視したりと、主から聞いているみことばに対する怠惰さには、必ずその刈り取りがあること。
a. 17節 「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません」との事実に注意すべきこと。
即ち、人間的な何らかの妥協・怠惰によって、みことばを「器で隠したり、寝台の下に置いたり」していると、その生活の実態は、必ず明るみに出されると。どのような形で ? 信仰生活に覇気が無くなり、霊的喜びが無くなることは、遅かれ早かれ明らかになると。
b. 18節 「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる」こと。
何と厳粛なことでしょう。
即ち、みことばを魂への重荷をもって真実に伝えるなら、その人は、みことばに新たな啓示が与えられ、より深く真理に目覚め、分かるようにされて行く。しかし、自分だけのものにしている人は、みことばの真理が分からなくなる。
これらの勧めは、マルコの福音書 8章35節 「それを失い、・・・それを救うのです」と、聖書に生きる者の原則的な法則である。
③ 主ご自身と持つべき生命的関係は、血縁関係にではなく、21節 「神のことばを聞いて行う人たち」にあること。
主が母マリヤを退けておられる訳ではない。ある意味で、群衆同様、母マリヤにも、霊的関係こそが生まれながらの関係よりも名誉なことなのだと諭す機会とされたのでは ?
恐らく、主の人望が厚くなるにつれて、肉親関係を羨( うらや )む人々が出て来ることを洞察されてのことかも知れない。
※ 18節 「聞き方に注意しなさい」と仰る主のお心を粗末にする軽はずみな生活態度には、十分注意したい。
この記事へのコメント