聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 34


ルカの福音書8章4節~15節

先週は、2、3節 「自分の財産をもって」主に仕えた「マグダラのマリヤ」に注目し、先ず、彼女が登場する場面を見た。
マグダラは、主の宣教拠点・カぺナウムから約5キロの距離の町であることから、彼女は主の初期の働きの実だったと考えられる。ここ8章で突如姿を現し、その後は、主の地上最後の出来事での重要な役割を担うことで存在感を現しているのを見た。十字架上の主の最期を目撃し、み体の取り降ろしから埋葬までを見守り、日曜日には真っ先に墓を訪ね、墓が空になったことを見、ペテロとヨハネに伝え、復活の主の顕現に与り、ペンテコステの祈りの場に、と。
そのマグダラのマリヤをして、主に仕えさせた理由は、何と言っても、2節 「七つの悪霊を追い出していただいた」霊的経験の明確さにある。悪霊に憑かれた状態を知るには、8章26~30節の〈 長い間着物も着けず、墓場を住まいとし、汚れた霊に振り回されていた 〉御し難い獣同然の生活振りから推測できる。実に彼女はレギオンほどではなかったとしても、女性として、七つの悪霊による苦悩は尋常ではなかった筈。
それ故、その狂気沙汰からの解放は、彼女をして、最早、主に生涯を捧げる以外の生き方は考えられないとさせた。その生涯の為にはと、11章24~26節 《 悪霊の出て来た所に戻ろうとする性質 》 に警戒し、救い後の生活に注意深かった。
日々、主から離れる隙を作らないようにと、主から来るものをもって自らの心を占領させ、空っぽ状態に警戒した。

※ 聖書が、主に仕えた多くの女性の中でもマリヤに目を向けさせているのは、彼女の注意深い霊の営みにあったと自戒した。


今朝は、主が ※ 4節 「大ぜいの人の群れ」に話された 《 種蒔きのたとえ話 》 を、一緒に聞いていた弟子たちが、9節 「どんな意味かをイエスに尋ねた」とある、その時の主の ※ 11節 「このたとえの意味はこうです」と始められた解説に学びたい。
先ず、「種は神のことばです」とある。又、その種が、12節 「道ばたに落ちるとは」、13節 「岩の上に落ちるとは」、14節 「いばらの中に落ちるとは」、15節 「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです」と。蒔かれた土地は、神のみことばを聞く、聞き手の心のことであり、種の生長と結実の如何は、それら土地の状態次第で決まるということである。
何故でしょう ?
 へブル人への手紙 4章12節 詳訳 「神の語られるみことばは生きていて、〈 みことばを働かせ、動かし、活動力を与え、有効にする 〉力に満ちており、もろ刃の剣よりも鋭く、いのちの息【魂】と不滅の【霊】、又関節と骨髄【即ち、私たち人間性の最奥部】の分かれ目に至るまで刺し通し、心の思いと意図までも露わにする〈 ふるいに掛ける〈 分析する〈 裁く 〉からです 〉」。 
『 至聖所 アンドリュー・マーレー著 』  神の御言の第一の働きは、傷付け、切り、又割くことである。魂は自然の生命がその座をもち、霊は霊的神的生命がその座をもつ。罪は混乱不規則を来した。そして、霊が自然生命なる魂の支配下に入った。けれども神の言はこれを分割し離し、霊を覚醒してその見えざる永久的なることの機能としての運命を自覚せしめ、魂をして自ら罪の能力の下に虜となっていることを知らしめる。御言は深く又間違いなく切開し罪の深い腐敗を発見する―。

神のみことばが持つ力を知る時、最早、私たちは結実がないという事で嘆き悲しむのではなく、神のみことばをどの様な心で聞くのか、心の態度に留意すべきと自戒したい。
このたとえ話の目的は、この一点にある。
ですから、8節 詳訳 「イエスは 『 聞く耳を持つ者は耳を傾けなさい【聞いて悟りなさい】 』 と叫ばれた」とあり、この「叫ばれた」とは、大声で叫ぶの意で、この命令に聞くことへの厳しさ・厳粛さが込められていると学ぶ言葉である。
その上で主は、9節で「どんな意味」ですかと聞いて来た弟子たちの姿勢に安堵されたが、何故たとえ話をするのかの説明を加えて、 “ 他の者は見ていても見えず、聞いても悟らないから ” と。即ち、聞いてみようとの関心をそそる為にと。

さて、主はどのような心で聞くことを期待されたのか ?
15節の「良い地」の状態であり、詳訳 「みことばを聞いたなら、正しい〈 気高い、潔い、立派な 〉心、これをしっかりと保ち、忍耐をもって、着実に実を結ばせる者たちのことである」とある。
この「良い地」の心の状態とは、具体的にどのような霊的在り方で生活する人なのか ? 他の三つの土地が何故、実を結ぶに至らなかったのか、それらの問題点の是正が鍵となる !!

① 12節 「聞いたが」の問題点 :

「あとから悪魔が来て・・・その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまう」ことを許している。5節 「人に踏みつけられ」とは、心の中に入れてはいない状態。
みことばを一向に受け付けない頑( かたく )なさの象徴。異教だから ? 非合理的 ? 非現実的 ? 科学的ではないから ? と理屈をこねる。心の問題に無頓着である姿勢、「良い地」とは対極にある。

② 13節 「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが」の問題点 :

「根がない」という霊的生活が上っ面でしかなく、いわゆる霊的に扱われることが皆無。それは聖書との関係がその場限り、その場しのぎで、主との霊的・生命的関係がない、主に根が降ろされていない。自分の都合だけで生きる為、「試練のときになると、身を引いて」、6節 「水分がなかったので、枯れてしまった」という惨めさ。これも「良い地」の対極にある。

③ 14節 「聞きはしたが」の問題 :

「とかく( あれやこれや )しているうちに」とは、みことばを通して迫る聖霊の導きに与り、又、為すべきことが何であるのか明確な指示が与えられながらも、優柔不断な時間を過ごしてしまう態度のこと。その隙に、詳訳 「生活の心配や富や、快楽に押さえつけられ 【息の根を止められて】、実の熟さない〈 成熟しない、完成しない 〉者たちのことである」という、これも対極にある。

※ 「良い地」の特色は、潔さ 《 聖霊の声に、瞬時従う心 》 と、従うことに伴う忍耐に生きることにある。みことばによって扱われる道を選択しつつ、明け渡しの日々に心したい。

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