ルカの福音書8章1節~3節
先週は、あるパリサイ人の招きを受けて、食卓に着かれた主に ※ 7章37、38節 「ひとりの罪深い女」が、「香油を塗った」場面で、主が彼女に宣言された ※ 50節のおことばに学んだ。
主が ※ 44~46節で、三つのシモンがしなかったこと、女がしたこととを明確にされた内容と、39節 「この方」とはギリシヤ語で「この人間」との意で、イエスに敵対して「こいつ」と言う侮辱的用語だったこととを鑑み、シモンの不純な動機( 悪意に満ちた観察 )から主を招いた重い空気の中で、しかも蔑視される彼女への称賛。しかも、「先生」と善意を装うパリサイ人の優越感が漂う社交の場で、堂々とシモンの惨めな正体への制裁である。
主が評価された、50節 「あなたの信仰」とは ? 47節 「この女の多くの罪は赦されています」によって説明され、赦しは、エレミヤ書 36章3節 「・・・わざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」とあるが、悔い改めて 《 神なき生活から、神ありとする生活に方向転換 》 した時に与えられる。
その罪の自覚が上っ面のものではなく、「多くの」と、犯した罪の量的な多さの自覚も然ることながら、罪の本質的悪のおぞましさに怯えた心の態度をもっての悔い改めである。
この種の信仰は、必ず、47節b 「彼女はよけい愛した」という生活態度に顕( あらわ )される。47節c 「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」とあるが、罪の自覚の程度が【多いか少ないか】。その人の賜物の問題でもなく、人間的力量にもよらない。
※ 偽善に満ちた社交の場で実践した女の信仰に倣いたい、と。
今朝は、8章3節 「自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たち」として名が挙げられている三人の中のひとり、2節の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」という女性に注目したい。
『 ルカの福音書 』 の連講に入る際に、この書の特徴として、他の福音書にその類を見ない何人もの女性の記録があると学んでいた。その極め付きは、何と言っても、主の母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリサベツの物語からの始まりに見られるということだったが、ここ8章では、1節の主の果敢になされる宣教の働きを経済的に支援する群れとして、女性たちが登場している。
今日では考えられない程、女性の社会的地位が極めて低い時代にあって、人々の心にルカを感動させて伝えようとされた聖霊の御思いは、一体何だったのでしょうか。到底、人間的な視点からは推し測ることの出来ない 《 本当の価値、真に尊いこととは何なのか ? 》 を、改めて考えさせて頂きたい。
マグダラのマリヤと聞けば、私たちは 《 主の復活の最初の目撃者、主が復活の証人として選ばれた器 》 と記憶している。十字架の死からの復活という 《 人類の歴史上、最高の福音 》 を告げ知らせる為に選ばれた器が、彼女だったのだ !!
主の心臓の鼓動を最も身近にあって聞いたとされるヨハネでもなく、主の側近者として召し出され、何かと十二使徒の頭的存在として主に仕えていたペテロにでもなかったこの栄誉。実に、ヨハネにしてもペテロにしても、このマリヤから告げられて初めて知ることになったのだ。
① 3節 「自分の財産をもって彼らに仕え」た女性たちの中で真っ先に出て来るマグダラのマリヤが、他の記事で登場している場面を見ておきたい。
彼女がいつ、救いに与ったのかについての言及はないが、マグダラの町が、ガリラヤ湖の西岸に位置し、そこから北にある主の宣教の拠点・カぺナウムとは約5キロの距離であることから、主がそこで行われた初期の働きの実だったと考えられる。
彼女は、ここ8章2節で突如、姿を現し、その後の場面では全て、主の地上最後の出来事での重要な役割を担いつつ、存在感を示していることに驚く。
ヨハネの福音書 19章23~30節では、十字架で息を引き取られる主の最期を目撃した女性たちの中の一人として出て来る。 同 38~42節( マルコの福音書 15章42~47節 )では、※ 遺体の下げ渡しを願い出て、取り降ろしから埋葬までを見守った。更に、20章1~18節には安息日を守って後、同 1節 ※ 日曜日には真っ先に墓を訪ね、墓が空になったことを知り、同 2節 ※ ペテロとヨハネに伝えている。そして同 11~18節 ※ 彼女への復活の主の感動的な顕現である。その後は、ペンテコステの時、弟子たちと共に「屋上の間で」祈っていた記事・使徒の働き 1章14節に出て来る「婦人たち」の中に、必ずや居合わせたに違いない。
② マグダラのマリヤをして、このように主に仕えさせた理由は ? 或いは、何故、彼女が最初の復活の証人として選ばれたのか、その理由は ?
何と言っても、2節 「七つの悪霊を追い出していただいた」という霊的経験の明確さにある。
悪霊に憑かれたと言えば、8章26~30節に出て来るレギオンでしょう。27節には、「悪霊につかれている男が・・・長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」とあり、29節 「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので・・・」と、その生活振りは御し難い獣同然。何故なら、レギオン( ※ 大勢の悪霊 )に縛られていたからである。実に彼女においても、彼ほど ? ではなかったのか、その詳細は分からないにしても、唯女性として、七つの悪霊に悩まされていたという生活を思うと気の毒。
それ故、その気違い沙汰からの解放によって、最早、主に生涯を捧げる以外の生き方は考えられなくなっていた。
彼女がその為に自覚したのが ※ 11章24~26節にある悪霊の〈 出て来た所に戻ろうとする性質 〉である。確かに、25節 「帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました」とは、 《 過去の罪が清算されて、心が清められた状態 》 を意味するが、救われた後の生活に注意深かった。
日々、主から離れる隙を作らなかった。即ち、主から来るものをもって自らの心を占領させ、空っぽ状態に警戒した。26節、悪霊は以前よりも多くの悪霊を連れてやって来、「初めよりもさらに悪く」なるからだ。ペテロの手紙 第二 2章22節。
※ 聖書が、主に仕える女性たちの中で、取り分け私たちの注意をマリヤに向けさせているのは、彼女のこの感恩の情に生きる注意深い霊的在り方にあったと学んで自戒したい。
先週は、あるパリサイ人の招きを受けて、食卓に着かれた主に ※ 7章37、38節 「ひとりの罪深い女」が、「香油を塗った」場面で、主が彼女に宣言された ※ 50節のおことばに学んだ。
主が ※ 44~46節で、三つのシモンがしなかったこと、女がしたこととを明確にされた内容と、39節 「この方」とはギリシヤ語で「この人間」との意で、イエスに敵対して「こいつ」と言う侮辱的用語だったこととを鑑み、シモンの不純な動機( 悪意に満ちた観察 )から主を招いた重い空気の中で、しかも蔑視される彼女への称賛。しかも、「先生」と善意を装うパリサイ人の優越感が漂う社交の場で、堂々とシモンの惨めな正体への制裁である。
主が評価された、50節 「あなたの信仰」とは ? 47節 「この女の多くの罪は赦されています」によって説明され、赦しは、エレミヤ書 36章3節 「・・・わざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」とあるが、悔い改めて 《 神なき生活から、神ありとする生活に方向転換 》 した時に与えられる。
その罪の自覚が上っ面のものではなく、「多くの」と、犯した罪の量的な多さの自覚も然ることながら、罪の本質的悪のおぞましさに怯えた心の態度をもっての悔い改めである。
この種の信仰は、必ず、47節b 「彼女はよけい愛した」という生活態度に顕( あらわ )される。47節c 「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」とあるが、罪の自覚の程度が【多いか少ないか】。その人の賜物の問題でもなく、人間的力量にもよらない。
※ 偽善に満ちた社交の場で実践した女の信仰に倣いたい、と。
今朝は、8章3節 「自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たち」として名が挙げられている三人の中のひとり、2節の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」という女性に注目したい。
『 ルカの福音書 』 の連講に入る際に、この書の特徴として、他の福音書にその類を見ない何人もの女性の記録があると学んでいた。その極め付きは、何と言っても、主の母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリサベツの物語からの始まりに見られるということだったが、ここ8章では、1節の主の果敢になされる宣教の働きを経済的に支援する群れとして、女性たちが登場している。
今日では考えられない程、女性の社会的地位が極めて低い時代にあって、人々の心にルカを感動させて伝えようとされた聖霊の御思いは、一体何だったのでしょうか。到底、人間的な視点からは推し測ることの出来ない 《 本当の価値、真に尊いこととは何なのか ? 》 を、改めて考えさせて頂きたい。
マグダラのマリヤと聞けば、私たちは 《 主の復活の最初の目撃者、主が復活の証人として選ばれた器 》 と記憶している。十字架の死からの復活という 《 人類の歴史上、最高の福音 》 を告げ知らせる為に選ばれた器が、彼女だったのだ !!
主の心臓の鼓動を最も身近にあって聞いたとされるヨハネでもなく、主の側近者として召し出され、何かと十二使徒の頭的存在として主に仕えていたペテロにでもなかったこの栄誉。実に、ヨハネにしてもペテロにしても、このマリヤから告げられて初めて知ることになったのだ。
① 3節 「自分の財産をもって彼らに仕え」た女性たちの中で真っ先に出て来るマグダラのマリヤが、他の記事で登場している場面を見ておきたい。
彼女がいつ、救いに与ったのかについての言及はないが、マグダラの町が、ガリラヤ湖の西岸に位置し、そこから北にある主の宣教の拠点・カぺナウムとは約5キロの距離であることから、主がそこで行われた初期の働きの実だったと考えられる。
彼女は、ここ8章2節で突如、姿を現し、その後の場面では全て、主の地上最後の出来事での重要な役割を担いつつ、存在感を示していることに驚く。
ヨハネの福音書 19章23~30節では、十字架で息を引き取られる主の最期を目撃した女性たちの中の一人として出て来る。 同 38~42節( マルコの福音書 15章42~47節 )では、※ 遺体の下げ渡しを願い出て、取り降ろしから埋葬までを見守った。更に、20章1~18節には安息日を守って後、同 1節 ※ 日曜日には真っ先に墓を訪ね、墓が空になったことを知り、同 2節 ※ ペテロとヨハネに伝えている。そして同 11~18節 ※ 彼女への復活の主の感動的な顕現である。その後は、ペンテコステの時、弟子たちと共に「屋上の間で」祈っていた記事・使徒の働き 1章14節に出て来る「婦人たち」の中に、必ずや居合わせたに違いない。
② マグダラのマリヤをして、このように主に仕えさせた理由は ? 或いは、何故、彼女が最初の復活の証人として選ばれたのか、その理由は ?
何と言っても、2節 「七つの悪霊を追い出していただいた」という霊的経験の明確さにある。
悪霊に憑かれたと言えば、8章26~30節に出て来るレギオンでしょう。27節には、「悪霊につかれている男が・・・長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」とあり、29節 「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので・・・」と、その生活振りは御し難い獣同然。何故なら、レギオン( ※ 大勢の悪霊 )に縛られていたからである。実に彼女においても、彼ほど ? ではなかったのか、その詳細は分からないにしても、唯女性として、七つの悪霊に悩まされていたという生活を思うと気の毒。
それ故、その気違い沙汰からの解放によって、最早、主に生涯を捧げる以外の生き方は考えられなくなっていた。
彼女がその為に自覚したのが ※ 11章24~26節にある悪霊の〈 出て来た所に戻ろうとする性質 〉である。確かに、25節 「帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました」とは、 《 過去の罪が清算されて、心が清められた状態 》 を意味するが、救われた後の生活に注意深かった。
日々、主から離れる隙を作らなかった。即ち、主から来るものをもって自らの心を占領させ、空っぽ状態に警戒した。26節、悪霊は以前よりも多くの悪霊を連れてやって来、「初めよりもさらに悪く」なるからだ。ペテロの手紙 第二 2章22節。
※ 聖書が、主に仕える女性たちの中で、取り分け私たちの注意をマリヤに向けさせているのは、彼女のこの感恩の情に生きる注意深い霊的在り方にあったと学んで自戒したい。
この記事へのコメント