聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 32


ルカの福音書7章36節~50節

先週は、主が34節で、「食いしんぼうの大酒飲み」と中誹謗するパリサイ人に一言、35節 詳訳 「しかし、知恵はそのすべての子どもたちによって【即ち、その生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが】証明される」と語られた所から、主が如何なるお方であるかを学んだ。

ⅰ 「知恵」である主はご自身への非難がどうであれ、彼らの口を封じようともせず極めて冷静に対応されるお方。
唯、「子どもたちが証する」とだけ語られた姿勢に、誰をも立ち入らせない聖父との深い交わりによる強さを見た !!

ⅱ 「知恵」である主は、【神の子たちの生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが証明される】と言い切る程、彼らを極みまで信じ期待されるお方。
ヨセフの生活態度から、その解説を試みた。創世記 39章7~10節 「※ 9 ・・・どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」に顕著。ポティファルの妻から性的な誘惑を受けた時、青年ヨセフのきっぱりと拒絶した姿勢は「神の正しさ」の証であった。
誘惑に満ちた現代社会において、世が自らの価値観をもって神をどう非難しようと、神の子が神の価値観をもって生き抜くと期待し、信任しておられる。

ⅲ 「知恵」である主は、ご自身が成し遂げる十字架による贖いの力を確信しておられるお方。
パウロをして、ピリピ人への手紙 3章7~9節で主を誇らせた。
何故なら、へブル人への手紙 9章14節 「その血は・・・」だから。

※ 主のこの期待を裏切らない神の子としての日々を、と。


今朝は、主があるパリサイ人の招きを受けて、食卓に着かれた時のこと、それと知った ※ 37、38節 「ひとりの罪深い女」が、「香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛で拭い、御足に口づけして、香油を塗った」という場面から、主の語られた ※ 50節のおことばに学びたい。
このおことばは、この家の主人シモンが ※ 39節 「この女は罪深い者」と蔑視した女性への主の宣言である。
シモンは、主を客として招いたのではあるが、動機はどこにあったのだろうか ? 決して好意的なものではなかった。
それを先ず、見ておきたい。
44~46節 「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来た時、あなたは・・・してくれなかったが、この女は・・・してくれました」と、主は三つのシモンがしなかったこと、女がしたことを明確にされたが、その内容から一目瞭然なのだ。
シモンの行為を見てみたい。
ⅰ. 44節で、足を洗う水を提供しなかったこと。客を招いた主人が足を洗う水を出さないということは、客に対する意図的な侮辱と見做され、無礼である。ⅱ. 45節で、当然の挨拶としての敬意を表する口づけをしなかったこと。歓迎していない者には出来ない。ⅲ. 46節の油を塗るという好意については、主が「わたしの頭に【詳訳: 安い、普通の】油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に【詳訳: 高価な、珍重な】香油を塗ってくれた」と言われたことから、シモンが如何に主を歓迎してはいないかが分かる。

従って、明らかに不純な動機からであり、39節 「この方がもし預言者なら・・・」と、唯、主を観察したいが為の招待。ある注解書によれば、ギリシヤ語では「この人間」との意で、しばしばイエスに敵対して、「こいつ」と言って使う侮辱的用語だと。
ところが、主は何と !! 36節 「いっしょに食事をしたい」とあたかも善意を装うパリサイ人の優越感が漂う社交の場で、堂々とシモンの惨めな正体を暴き、同席者を正されたのだ。
主は、彼女を侮蔑の眼差しで見下しているシモンと ※ 49節 「いっしょに食卓にいた人たち」の目の前で彼女を高くし、信仰とは何なのか ? を明らかに証されたのだ。
詩篇 109篇31節 「主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われる」、113篇5~8節 「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ・・・」と。

主が評価された、50節 「・・・あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われる「あなたの信仰」とは、どのような信仰なのかを学んで Message としたい。
主は、たとえ話 ※ 41、42節を語り、最後に「・・・では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」とシモンに質問された。その時シモンは、43節 「よけいに赦してもらったほうだと思います」と正解を出した。
主は、43節b 「あなたの判断は当たっています」と言われたが、残念ながら、主はその正解で喜ばず、彼を正す為、直ちに、44節 詳訳 「それから女の方を振り向いて、シモンに言われた。『 この女をご覧 』 」と、信仰の何なるかを諭された。

具体的に、女の信仰とは ? 47節、「この女の多くの罪は赦されています」と主が仰たおことばで説明される。
赦しは、どのような時に与えられるのでしょうか ?
エレミヤ書 36章3節 「・・・わざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」とあるが、何という恵み深いお心の吐露でしょうか !!
彼女は罪の自覚に導かれて神に立ち返った。悔い改めて 《 神なき生活から、神ありとする生活に方向転換 》 したのだ。
その罪の自覚が上っ面のものではなく、「多くの」とは、犯した罪の量的な多さの自覚も然ることながら、罪の本質的悪のおぞましさに怯えた、その程度の大きさを示している。
そうした信仰は、必ず、47節b 「彼女はよけい愛した」という生活態度に、当然、遅かれ早かれ顕( あらわ )される。
パウロの信仰告白が、その典型 ⇒ コリント人への手紙 第二 5章16節 「かつては・・・、今は」、ガラテヤ人への手紙 1章10節 「もし私が今なお・・・なら、私はキリストのしもべとは言えません」、23節 「以前・・・した者が、今は」という明確な転換を見るもの。
7章47節c 「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」でも明らかなように、罪の自覚の程度【多いのか少ないのか】如何によって、主への愛の程度が決まる。
その人の賜物の問題でもなく、人間的力量にもよらない。

※ 「女」は、主を招いた筈のシモンが歓迎せずにいる暗い雰囲気を破って愛の行為に出た。彼女の真の信仰に倣いたい。

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