聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 31


ルカの福音書7章29節~35節

先週は、ペンテコステを記念して、28節b’ 「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」から 《 神の国と聖霊との関係 》 について考えさせて頂いた。

ⅰ 「神の国」とは ?
神の統治する国であり、神の完全なご性質によって支配される完全に祝福された国である( 黙示録 21章1~8節 )。
主のご奉仕は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」の宣言に始まり、ルカの福音書 4章43節 「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」と、「神の国」が念頭にあってのこと。
聖霊によってマリヤの胎に宿り、洗礼時に聖霊の注ぎに与り、聖霊に導かれて試みられた主は、マタイの福音書12章28節 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と、神の国は聖霊によって既に始まっていると明言された。

ⅱ 「神の国で一番小さい者」とは ?
ローマ人への手紙 8章14、15節と、聖霊によって 《 父と子との関係 》 に導かれた者のこと。福音書の記者ヨハネがパトモス島で、「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者・・・ 黙示録 1章9節」と言うように、お互いも既に、聖霊によって与っている。

ⅲ 但し、既に与っている「神の国」の特権も、その維持のためには、個人的な不断の自覚が必要なのだ。

※ ペテロの手紙 第二 1章10~16節 「ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい・・・」に心して聞くべきと、聖餐式に臨んだ。


今朝は、7章35節 詳訳 「しかし、知恵はそのすべての子どもたちによって【即ち、その生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが】証明される」という、素通りするわけにはいかない主のおことばに踏みとどまって考えたい。
このおことばはどのような背景で仰ったのでしょうか。
29、30節 「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました」である。即ち、パリサイ人たちによって、本来バプテスマのヨハネの宣教によって認められるべき 《 神の正しさ 》 が否定され、神ご自身が拒まれたことに。
その姿は、正に、 詳訳 31、32節の光景で、文句を言っている子どもに同じだと言われた。「だから、この時代の人々を何にたとえようか。彼らは何に似ているか。それは、子どもたちが市場に座って、互いに呼び掛け、『 私たちは【嫁入り遊びで】笛を吹いたのに、あなたがたは踊ってくれなかった。私たちは【葬式遊びで】弔いの歌を歌った〈 泣きわめいた 〉のに、あなたがたは泣いてくれなかった 』 と言うのに似ている」と。
具体的には、33節 「というわけは・・・」と、バプテスマのヨハネに対して「・・・ 『 あれは悪霊につかれている 』 とあなたがたは言うし」、主に対しては、「・・・ 『 あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ 』 と言うのです」と。
何れにせよ、勝手気ままなパリサイ人にとっては、バプテスマのヨハネの存在も、主の存在も喜びとはならずに敵意のみ。
こうした非難を浴びる中で語られた ※ 35節のおことばから、主が如何なるお方であるかを学びたい !!

① 「知恵」である主はご自身への非難がどれ程のものであれ、極めて冷静に対応されるお方。

主に浴びせられた ※ 34節の「食いしんぼうの大酒飲み」は、極めて俗っぽくて下品。実際、取税人たちの食事の席には、お酒があったからなのでしょう。しかし、主が、ご自身の為に嗜( たしな )んだとは考えられない。主が交わりの場を好まれたのは、集まる人々の救いの為であって、ローマ人への手紙 15章1~3節 「・・・キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『 あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった 』 と書いてあるとおりです」の聖句で十分。あくまでも主は、彼らの誹謗中傷する口を封じようともせずに、唯、「子どもたちが証する」とだけ語られた姿勢に、誰をも立ち入らせない聖父との深い交わりによる強さを見るではないか !!
何と羨( うらや )ましい関係が、そこにはあることでしょう !!

② 「知恵」である主は、【神の子たちの生活、品性、行為によって、正しいこと、神聖であることが証明される】ということを極みまで信じて期待されるお方。

神は畏れられるべきお方で侮られるべきお方ではないこと、額面通りお従いすべきお方であることを、子どもたちがその生活振りで証明するという期待。
ヨセフの生活態度から、その解説を試みたい。
創世記 39章7~10節 「※9 ・・・どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」に顕著。ポティファルという主人の妻から性的な誘惑を受けた時、きっぱりと拒絶した17歳のヨセフは、「姦淫してはならない。 出エジプト記 20章14節」と仰る神の正しさを証した。神は、ヨセフによって証されたのだ。
誘惑に満ちた現代社会において、世が自らの価値観をもって神の子たちに何をどのように言って来ようと、神の価値観をもって生き抜くことを期待し、信任しておられる。

③ 「知恵」である主は、ご自身が成し遂げられる十字架による贖いの力を確信しておられるお方。

パウロをして、ピリピ人への手紙 3章7~9節 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています・・・」と言わせる贖いの優越性を、主は確信しておられる。
又、ガラテヤ人への手紙 6章14節 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません・・・」と、パウロをして言わせる福音を。
何故なら、へブル人への手紙 9章14節 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は・・・」だから。

※ 主のこの期待を裏切らない神の子としての日々を !!

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