ペンテコステ記念礼拝 『ルカの福音書』 より 30


ルカの福音書7章24節~35節

先週は、獄中のバプテスマのヨハネからの ※ 19節 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも・・・」との主への質問に、主が ※ 23節 《 詳訳 「どんなことが起こっても、わたしに傷付けられない・腹を立てない・苛立たない・反発しない・まごつかない者は幸福である」 》 と言われた忠告に学んだ。
このおことばには、極めて穏やかな、彼を思いやる御思いが込められているが、紛れもなく、彼への厳格な忠告である。
主は彼の何をもって、「つまずいた」と見られたのだろうか ?
18、19節 「ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは・・・」と、主の働き全てを聞いて知った上で、主以外の誰かを求めたことに、である。
バプテスマのヨハネにとって、投獄そのものに異議はなかった筈。
唯、主のしておられることには、自分の奉仕の動機としていた危機感がないと感じたからである。主のなさることに納得がいかず、主に躓いた。「つまずく」の動詞は【憤慨する】である。その意味は、足をすくう( 良くない考えを宿す )、罠にかけるで、いつも「罪を犯させる」という時に使われていると学んでいる。私たちも又、この一事に警戒したい。
主に対し “ 何をなさるのですか ? いつまでですか ? 何故ですか ? ” と、憤慨し非難したくなる思いに陥る可能性はあるが、その思いを警戒し、潔く捨てるべきである。

※ テモテへの手紙 第二 2章13節 詳訳 「たとい私たちは不真実であっても〈 彼を信ぜず、彼に誠を欠いていても 〉、彼は何処までも〈 彼のみことばと彼の正しいご性質に 〉誠実。バプテスマのヨハネを厳格に戒められた主を信頼し抜くお互いでありたい、と。


今朝は、ペンテコステを記念して 《 神の国と聖霊との関係 》 について考えさせて頂きたい。
主は、バプテスマのヨハネへの伝言を託して使者を送り出した後、彼を称賛して、7章28節 「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」と仰った。
主はバプテスマのヨハネについて、24節 「風に揺れる葦( あし )」、つまり臆病者ではなく、25節 「柔らかい着物を着た人」、「きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人」ではないと断言された。
彼が荒野にいた時「神のことばが・・・下った。3章2節」とあり、マタイの福音書によれば「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 3章4節」とあったが、極端な世捨て人の意ではなく、神の指示をどれ程切望していたかの現れであり、心の分散を避け、如何に神に心が捕らえられていたかの証として既に、学んでいる。
※ 7章33節では「パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『 あれは悪霊につかれている 』 とあなたがたは言う」とあるように、禁欲的だとして非難されていた。

こうした情報からでしかバプテスマのヨハネを知ることが出来ないが、主から「・・・ひとりもいません」とされた称賛は、私たちの理解を超えていて驚くばかりである。
しかし今朝は、更に続く ※ 28節b' 詳訳 「しかし、神の国で【その民の他の者に比べて】劣る者でも【その無比の特権によって】彼より偉大である」と仰っておられるおことばこそ、先の驚きに勝る驚きではないか !!
主が「彼より偉大」だと言われているのは、主によって贖われた民( 主の救いに留まった者 )のことであるが、もし、私たちも主に留まり続けるならば、私たちのことなのだ !!

① 「神の国」とは ?

「天の御国」、ヨハネの福音書 3章16節では「永遠のいのち」という表現でも使われているが、主の祈りに、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、神の統治する国であり、そのお方の完全なご性質【聖・愛・義・あわれみ・まこと】によって支配される完全に祝福された国である。黙示録 21章1~8節。
マルコの福音書 1章14、15節を見ると、主のご奉仕は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」との宣言に始まり、ご自身の派遣は、ルカの福音書 4章43節 「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません」との明言の如く、「神の国」が念頭にあってのこと。
「時が満ち」とは、エペソ人への手紙 1章8~14節 「※10  時がついに満ちて」とあり、人類の贖い計画が目に見える形で成就する時が来たという画期的な宣言である。この画期的な働きの立役者は聖霊である。主は聖霊によってマリヤの胎に宿り、洗礼時に聖霊の注ぎに与り、聖霊に導かれて試みられ、極め付きは、マタイの福音書 12章28節 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と、神の国は聖霊によって 《 既に、始まっている 》 と言われている。

② 「神の国で一番小さい者」とは ?

ローマ人への手紙 8章14、15節 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥( おとしい )れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『 アバ、父 』 と呼びます」とあるように、聖霊によって 《 父と子との関係 》 に導かれた者のこと。
聖霊によって始められた主の働きの終着点・完成は、十字架の死と復活、昇天後の聖霊降臨だったからである。
ガラテヤ人への手紙 3章13、14節 「・・・このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と。
もう既に私たちは、「神の国」に与っている。( 福音書の記者 )ヨハネもパトモス島で、「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者・・・ 黙示録 1章9節」と言っているように。

③ 但し、既に与っている「神の国」の特権も、その維持のためには個人的な不断の自覚が必要。

ペテロの手紙 第二 1章10~16節 「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい ・・・」に心して聞くべきなのだ。
ペテロは迫害下にあるキリスト者たちを、絶えず「キリストの永遠の御国」への希望に導く為に力を尽くした。

※ 聖餐式に臨む今、心を新たにしたい。

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