ルカの福音書7章11節~17節
先週は、主から、9節 「イスラエルの中にも見たことがありません」とまで評価された 《 立派な信仰について 》 考えた。
彼の人となりには、6、7節で、主を「私の屋根の下にお入れする資格は」ないとし、自らが異邦人の身であるとの意識から、直接主の聖前に出ることを憚( はばか )った点に謙虚さを、或いは、当時のローマ兵とユダヤ人との関係が問題視される中での、4、5節に見る彼の人望の厚さから、実に品行方正で好感度の高い人物と思われる。しかし、主がこの百人隊長に一目置かれたのは、9節 「これを聞いて」という、彼の信仰の立派さだった。
7b、8節 《 神の権威に全幅的な信頼を寄せる信仰 》 である。
へブル人への手紙 11章3節 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と。
この11章は、古( いにしえ )の聖徒たちが皆、7節 「・・・神から警告を受けたとき、恐れかしこんで・・・造り・・・」、8節 「・・・出て行けとの召しを受けたとき、これに従い・・・」と、一たび神から 《 おことば 》 を受けたならば、知的にあれやこれや考えることを止め、アンドリュー・マーレーが、 “ 神の御言葉は本来、心、意志、愛情をもって受けるべきもの ” と言っているが、額面通り信じて受け入れるべきものなのだ。百人隊長は 《 唯、おことばを頂きさえすれば、私のしもべは必ず癒される 》 と、主のおことばの権威を微塵も疑わずに信じて期待したのだ。
※ 10節 「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」と、彼の信仰は報われた。主の絶対的権威を信じる信仰をもっておことばに向き合いたい、と。
今朝は、ナインと言う町で、12節 「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」に出会われた主が、その青年を死から起き上がらせた出来事に学びます。
やもめとなった母親のひとり息子の死は、主が、13節 「その母親を見てかわいそうに思い、『 泣かなくてもよい 』 」と言っておられる限り、人間的には深い同情が寄せられるべき状況にあったと考えられる。
既に夫との死別を経験し、その死別によって何を味わっていただろうか ? 今回は、たったひとりの息子との死別である。
その涙は、お互いが日常経験する様々な形での試練によって流す涙である。夫との死別によって、不利な社会的な立場、或いは、経済的な困窮状態が強いられたとも考えられる。残されたひとり息子は、14節 「青年よ」と呼ばれる年齢に達しているとすれば、多少なりとも母親を支える存在として期待されていたと考えられるが、その息子にも先立たれた母親。
主は「かわいそうに思い」と、深い同情を寄せられたのだ。
私たちはこの出来事から、如何に主が同情深く、涙する私たちに近づき、必要に応じて、それも、死の状態から起き上がらせることをすら為さるお方として知らされる。
しかしこの出来事から、この理解だけで良いのだろうか ?
主が行われた 《 死人を生き返らせた奇蹟 》 については、この出来事を含めて、福音書に三つのケースの記録がある。
他の二つは、ヤイロの娘の記事( 8章41、42、49~56節 )と、ラザロの記事( ヨハネの福音書 11章1~44節 )である。
何れの奇蹟も、愛する者を死から生き返らせて頂いたことによって、彼らの死を悼( いた )み悲しんだ人々は、一方ならぬ慰めを受けた。しかしこうした経験は、実は束の間のこと。
この 《 死からの生き返り 》 に与った「死」について考えるならば、へブル人への手紙 9章27節 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあり、究極は、肉体の死を見なければならないのだから。
最先端医療に関心が高まる一方、医療関係者から 《 死に備える医学 》 が必要だとする声が上がっているのは当然のこと。
この事実を踏まえつつ 《 死から生き返らせる 》 奇蹟を行われた主はどのようなお方だったのかに注目したい。
① 主は、永遠という時間と比べたならば、地上での束の間のことでしかないからといって、母親の苦悩に無関心を装うお方ではなく、今日の必要にも細心の関心を抱き、直接関与されるお方。
主が、人の子となられたのは、へブル人への手紙 2章18節 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」為であり、4章16節 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」という招きが成立しているのだ。
しかも、何という恵みでしょうか !!
この母親は、自ら主を求めた訳でもないのに、母親を見られた主の方から近づかれたというのだから。
② しかし主は、地上的事柄にご自身を提供しつつも、人々を永遠・究極の行くべき日を意識させて関与されるお方。
主が、五つのパンと二匹の魚をもって五千人の必要を満たされた時、その翌日も又、そのパンを求めてやって来た群衆に仰ったおことばに注目すべきである。
ヨハネの福音書 6章27節 現代訳 「あなたがたは、何時もこの食物のような朽ちてしまうものにしか関心がありませんが、どうして朽ちることのない永遠のものを求める為に一生懸命やろうとしないのですか。救いという永遠のものこそ、わたしが与えるものであり、天の父はその為に、わたしをこの世にお遣わしになったのです」と。
③ その上で主は、この永遠こそ現実とすべく、死からの生き返りをご自身の復活に結び付けて希望に導かれたお方。
ヨハネの福音書 11章25、26節 「イエスは言われた。『 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 』 」とは、母親のひとり息子とヤイロの娘に見た奇蹟の、頂点的奇蹟としてラザロの復活( 蘇生 )を宣言された時に語られたことばである。
地上では不遇な出来事に悩まされることがあっても、復活こそ究極の祝福だと 《 死から生き返る奇蹟 》 を起こされた。
※ 主は、試みにある聖徒に ※ へブル人への手紙 11章35節 「さらにすぐれたよみがえり」こそ現実 !! と仰がせて日々関わるお方と、感謝したい。
先週は、主から、9節 「イスラエルの中にも見たことがありません」とまで評価された 《 立派な信仰について 》 考えた。
彼の人となりには、6、7節で、主を「私の屋根の下にお入れする資格は」ないとし、自らが異邦人の身であるとの意識から、直接主の聖前に出ることを憚( はばか )った点に謙虚さを、或いは、当時のローマ兵とユダヤ人との関係が問題視される中での、4、5節に見る彼の人望の厚さから、実に品行方正で好感度の高い人物と思われる。しかし、主がこの百人隊長に一目置かれたのは、9節 「これを聞いて」という、彼の信仰の立派さだった。
7b、8節 《 神の権威に全幅的な信頼を寄せる信仰 》 である。
へブル人への手紙 11章3節 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と。
この11章は、古( いにしえ )の聖徒たちが皆、7節 「・・・神から警告を受けたとき、恐れかしこんで・・・造り・・・」、8節 「・・・出て行けとの召しを受けたとき、これに従い・・・」と、一たび神から 《 おことば 》 を受けたならば、知的にあれやこれや考えることを止め、アンドリュー・マーレーが、 “ 神の御言葉は本来、心、意志、愛情をもって受けるべきもの ” と言っているが、額面通り信じて受け入れるべきものなのだ。百人隊長は 《 唯、おことばを頂きさえすれば、私のしもべは必ず癒される 》 と、主のおことばの権威を微塵も疑わずに信じて期待したのだ。
※ 10節 「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」と、彼の信仰は報われた。主の絶対的権威を信じる信仰をもっておことばに向き合いたい、と。
今朝は、ナインと言う町で、12節 「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」に出会われた主が、その青年を死から起き上がらせた出来事に学びます。
やもめとなった母親のひとり息子の死は、主が、13節 「その母親を見てかわいそうに思い、『 泣かなくてもよい 』 」と言っておられる限り、人間的には深い同情が寄せられるべき状況にあったと考えられる。
既に夫との死別を経験し、その死別によって何を味わっていただろうか ? 今回は、たったひとりの息子との死別である。
その涙は、お互いが日常経験する様々な形での試練によって流す涙である。夫との死別によって、不利な社会的な立場、或いは、経済的な困窮状態が強いられたとも考えられる。残されたひとり息子は、14節 「青年よ」と呼ばれる年齢に達しているとすれば、多少なりとも母親を支える存在として期待されていたと考えられるが、その息子にも先立たれた母親。
主は「かわいそうに思い」と、深い同情を寄せられたのだ。
私たちはこの出来事から、如何に主が同情深く、涙する私たちに近づき、必要に応じて、それも、死の状態から起き上がらせることをすら為さるお方として知らされる。
しかしこの出来事から、この理解だけで良いのだろうか ?
主が行われた 《 死人を生き返らせた奇蹟 》 については、この出来事を含めて、福音書に三つのケースの記録がある。
他の二つは、ヤイロの娘の記事( 8章41、42、49~56節 )と、ラザロの記事( ヨハネの福音書 11章1~44節 )である。
何れの奇蹟も、愛する者を死から生き返らせて頂いたことによって、彼らの死を悼( いた )み悲しんだ人々は、一方ならぬ慰めを受けた。しかしこうした経験は、実は束の間のこと。
この 《 死からの生き返り 》 に与った「死」について考えるならば、へブル人への手紙 9章27節 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあり、究極は、肉体の死を見なければならないのだから。
最先端医療に関心が高まる一方、医療関係者から 《 死に備える医学 》 が必要だとする声が上がっているのは当然のこと。
この事実を踏まえつつ 《 死から生き返らせる 》 奇蹟を行われた主はどのようなお方だったのかに注目したい。
① 主は、永遠という時間と比べたならば、地上での束の間のことでしかないからといって、母親の苦悩に無関心を装うお方ではなく、今日の必要にも細心の関心を抱き、直接関与されるお方。
主が、人の子となられたのは、へブル人への手紙 2章18節 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」為であり、4章16節 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」という招きが成立しているのだ。
しかも、何という恵みでしょうか !!
この母親は、自ら主を求めた訳でもないのに、母親を見られた主の方から近づかれたというのだから。
② しかし主は、地上的事柄にご自身を提供しつつも、人々を永遠・究極の行くべき日を意識させて関与されるお方。
主が、五つのパンと二匹の魚をもって五千人の必要を満たされた時、その翌日も又、そのパンを求めてやって来た群衆に仰ったおことばに注目すべきである。
ヨハネの福音書 6章27節 現代訳 「あなたがたは、何時もこの食物のような朽ちてしまうものにしか関心がありませんが、どうして朽ちることのない永遠のものを求める為に一生懸命やろうとしないのですか。救いという永遠のものこそ、わたしが与えるものであり、天の父はその為に、わたしをこの世にお遣わしになったのです」と。
③ その上で主は、この永遠こそ現実とすべく、死からの生き返りをご自身の復活に結び付けて希望に導かれたお方。
ヨハネの福音書 11章25、26節 「イエスは言われた。『 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 』 」とは、母親のひとり息子とヤイロの娘に見た奇蹟の、頂点的奇蹟としてラザロの復活( 蘇生 )を宣言された時に語られたことばである。
地上では不遇な出来事に悩まされることがあっても、復活こそ究極の祝福だと 《 死から生き返る奇蹟 》 を起こされた。
※ 主は、試みにある聖徒に ※ へブル人への手紙 11章35節 「さらにすぐれたよみがえり」こそ現実 !! と仰がせて日々関わるお方と、感謝したい。
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