聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 27


ルカの福音書7章1節~10節

先週は、【ちりと梁】のたとえ話から、42節 「そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて取りのけることができるのです」と、手引きする者の在り方に光を与えて頂き、この「そうしてこそ」に学んだ。

ⅰ 41節 「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか」と、先ず「自分の目にある梁に」気付くことから始めること。
「兄弟の目のちり」とは、ガラテヤ人への手紙 6章2節 詳訳 「お互いの重荷【煩わしい道徳上の失敗・罪過や欠点】」のことで、自分では担いきれない重すぎる重荷のこと。一たび係わるならば、発見させられる自らの内的腐敗性が「梁」なのだ。
しかも兄弟の問題が「ちり」で、私には「梁」との事実。

ⅱ 42節 「まず自分の目から梁を取りのけなさい」に従うべく謙って、十字架の血による清めに与ること。
それも、48節 「地面を深く掘り下げ」る人であること。もし、兄弟の目のちりを取り除くことに終始し、それをどの様にすれば、何と言えば・・・ということにのみ腐心することに追われる時、得てして自分自身の霊的状態が疎( おろそ )かになり、地面を深く掘り下げる霊的経験には与り得ない。

ⅲ これらの「そうしてこそ」との指導に従わないなら、42節 「偽善者」で、46節 「主よ、主よ」と呼ぶだけの者でしかない。「目のちり」を取り除けるどころか、その形を取っているとの自己満足だけで、「盲人の手引き」なのだ。

※ 42節 「兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのける・・・」者となる為、真実に扱われて役立たせて頂きたい、と。


今朝は、主から、7章9節 「イスラエルの中にも見たことがありません」とまで評価された 《 立派な信仰とは 》 を考えたい。
主が、宣教の拠点としておられたカぺナウムでのこと。
2節を見ると、「ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた」とある。そこで、その百人隊長が、3節 「イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした」ことに始まる出来事である。
百人隊長とは、百人の兵士を預かるローマ人将校で、その彼には兵士だけではなく、しもべがいた。
このしもべの為に、彼は初め、ユダヤ人の長老たちを送り、後には、6節 「友人たちを使いに出して、イエスに伝えた」とある。マタイでは、百人隊長が直接主の御許にやって来て懇願したとあるが( マタ 8・5 )、それはマタイの福音書の特色によるもの。即ち、事の成り行きの詳細を省き、その出来事を端的に伝えることを目的としていたからである。
実際、百人隊長は主と直接面会してはいないが、彼は、使者を通して主の御許に出たのだ。
何故、使者を通してだったのかについては、理由があった。
ユダヤ人の長老を送った時点では、3節 「・・・しもべを助けに来てくださるようお願いした」だった。ところが、主をお待ちしている間に “ 何と !! 畏れ多いことを ” と思い立ち、6b'~7節で、「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました・・・」と。

彼の主への遠慮を、謙虚な姿勢として私たちは学ぶべきところがあるようにも思える。又、ユダヤ人の長老たちを遣わしたことからも、自らが異邦人の身であるとの意識から、直接主の聖前に出ることへの憚( はばか )りがあったのではと見る時、そこにも謙虚さを認めるべきかも知れない。
更にユダヤ人から、4、5節 「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。『 この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です 』 」と言われているところを見ると、彼の人望の厚さがうかがえる。
当時のローマ兵について言及されている記事―3章14節b’ 「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」―を見る時、しばしばユダヤ社会での彼らの横柄さが問題とされていた事実に比して、珍しく褒められるべき人物である。

こうして百人隊長の人となりを考えるならば、実に品行方正で好感度の高い人物ではあるが、主がこの百人隊長に一目を置かれたのは、9節 「これを聞いて」という、彼の信仰の立派さにあった。
「これを」とは、7節b 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」、8節 「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに 『 行け 』 と言えば行きますし、別の者に 『 来い 』 と言えば来ます・・・」である。

それは、《 神の権威に全幅的な信頼を寄せる信仰 》 である。
※ 8節 「私も権威の下にある者」とは、ローマ帝国の最高権威者の下にあって、その権威には従うべきものとの経験に基づきつつ、このような「私の下にも」と、権威というものがどのような力を持つものであるのかを知って、ましてや 《 主においては絶対的権威あるお方 》 との信仰である。
確かに、聖書的根拠のある信仰である。
へブル人への手紙 11章3節 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたこと【創世記 1章3節 「そのとき、神が 『 光よ。あれ 』 と仰せられた。すると光ができた」】を悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」と。
この11章は、古( いにしえ )の聖徒たちが皆、7節 「・・・神から警告を受けたとき、恐れかしこんで・・・造り・・・」、8節 「・・・出て行けとの召しを受けたとき、これに従い・・・」と、一たび神から 《 おことば 》 を受けたならば、知的にあれやこれや考えることを止め、アンドリュー・マーレーが、 “ 神の御言葉は本来、心、意志、愛情をもって受けるべきもの ” と言っているが、額面通り信じて受け入れるべきものなのだ。百人隊長は 《 唯、おことばを頂きさえすれば、私のしもべは必ず癒される 》 と、主のおことばの権威を微塵も疑わずに信じて期待したのだ。

※ 10節 「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」と、彼の信仰は報われた。主の絶対的権威を信じる信仰をもっておことばに向き合いたい。

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