ルカの福音書6章27節~38節
先週は、主が何度も「いまは、やがて、いまに」と繰り返して言われたおことばに注目して三つの事を学んだ。
ⅰ 主は、何をもって「幸いです」と言われたのか ?
20節 「貧しい者は幸いです」と。マタイの「心の」に対して、経済的な意味でのこと。ある富める若き司の記事から、富が祝福ではなく、むしろ彼を縛り、神に代わって拠り所となる偶像と学んだ。しかし「貧しさ」は、神により頼む機会を得て、神を経験させることに導く、と。
更に、21a、21c、22、23、と。そして主は、それぞれにその理由を語っていて下さる。
ⅱ 主は、何をもって「哀れな者」と言われるのか ?
24a、25ac、26節と語られ、そこにも理由が添えられている。
ⅲ 主の示されるこの価値観は、実証された。
各例会で学んでいる 『 小羊の王国 』 で、このルカの箇所の解説があった。 “ 十字架に釘づけにされた王の姿は、地上における神の国の逆説性を鮮やかに示している。・・・( 黙示録では )通常の価値が覆されていく ” と。主は極悪人として十字架で処刑された。「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。 ルカの福音書 23章35節」と嘲( あざけ )られても受難に甘んじる主を見て、サタンは薄笑いしながら勝利したと思った。ところが主は、復活によって事態を逆転したのだ。
※ 敗北だとしか考えられない「いま」を経験しているならば、主が「やがて、いまに」と保証する幸いが現実となると受け止めて待ち望ませて頂けることは、何という恵み !! へブル人への手紙 10章35~39節に留まりたい、と。
今朝は、27節 「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います」と、更に熱を入れて語られる、35節b’ 「そうすれば・・・あなたがたは、いと高き方の子どもになれます」と言って頂いているお言葉に注目したい。
① 「いと高き方の子どもになれる」とは ?
一言で、神のご性質に与ることを意味している。
新約聖書ではルカのみが用いている( 1章32、35、76節 )神を呼ぶのに用いる名称であるが、私たちがイメージするのに、イザヤ書 6章の記事が助けとなるでしょう。
同 1節 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた王座に座しておられる主を見た」、このことではないだろうか。
ヨハネは、「イザヤがイエスの栄光を見た」と言っているが( ヨハ 12・41 )、聖父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三位の神ご自身であることは言うまでもない。
イザヤ書 6章3~5節 「 『 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。 』 その叫ぶ者の声のために、敷居の基( もとい )はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『 ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから 』 」とは、イザヤが聖なるお方の臨在に圧倒されて、身震いした光景である。
テモテへの手紙 第一 6章16節には「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」とある。
このお方のご性質に与るという事は、本来あり得ないこと。にも拘らず「いと高き方の子どもになれます」とは !!
② ここで啓示されている「いと高き方」とは ?
「聖」というご性質から出る「愛、神のみが持っておられるアガペーの愛」なるお方であるとの啓示である。
主がここで「しなさい」と勧められる一つ一つは、アガペーの愛をもってでなければ実行不可能である。
27節 「わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」、28節 「あなたをのろう者を祝福しなさい」、29節 「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい」、31節 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい ⇒ 人に求めるなら、先ず自分自身が人に実践すべきこと」、35節 「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい」、36節 「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」、37節 「さばいてはいけません。・・・人を罪に定めてはいけません。・・・赦しなさい」、38節 「与えなさい」と。
神の愛の特質は、何と言っても 《 敵を愛する愛 》 にある。
ローマ人への手紙 5章6節 「私たちがまだ弱かったとき」、8節 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を明らかにし・・・」、10節 「もし敵であった私たちが・・・」とあり、紛れもなくこの「私」をさえも、愛するお方であると。
私たちは、32~34節 「・・・したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ・・・愛しています」とある様に、「自分を愛する者を愛」し、「自分に良いことをしてくれる者に良いことを」し、「返してもらうつもりで人に貸」す者でしかない。まかり間違えば、愛され、良くしてくれる者に、必ずしもそうでないかも知れない。
③ 「いと高き方の子ども」となるには ?
35節 「そうすれば・・・なれます」とは、恰( あたか )も実行したら「な」るかのように聞こえるが、そうではない。その姿勢こそ「いと高き方の子ども」との証を持つの意。その為には・・・
a. 主が言われる一つ一つの勧めの前に、兎に角、難しいとして頭から諦め出す態度を慎むこと。
b. 実際、どの戒めのどの部分で出来ないのかについて聖霊の光を受け、その正体を明白にして頂くことである。
ヨナは、アッシリヤ宣教を命じる主に抵抗して従わなかった。ヨナ書 4章1~3節は、その不服従の理由であるが、ヨナには、主の愛とは相容れない肉的利己主義があった。主は、ヨナにご自身の重荷を伝えて、同 4~11節 「あなたは当然のことのように怒るのか・・・」と諭し、徹底的に扱われた。
c. ガラテヤ人への手紙 5章22~25節 「御霊の実は、愛・・・。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」にある霊的経験を明確にすること。
※ 高尚な生涯への招きに与るべく、信仰の歩みを。
先週は、主が何度も「いまは、やがて、いまに」と繰り返して言われたおことばに注目して三つの事を学んだ。
ⅰ 主は、何をもって「幸いです」と言われたのか ?
20節 「貧しい者は幸いです」と。マタイの「心の」に対して、経済的な意味でのこと。ある富める若き司の記事から、富が祝福ではなく、むしろ彼を縛り、神に代わって拠り所となる偶像と学んだ。しかし「貧しさ」は、神により頼む機会を得て、神を経験させることに導く、と。
更に、21a、21c、22、23、と。そして主は、それぞれにその理由を語っていて下さる。
ⅱ 主は、何をもって「哀れな者」と言われるのか ?
24a、25ac、26節と語られ、そこにも理由が添えられている。
ⅲ 主の示されるこの価値観は、実証された。
各例会で学んでいる 『 小羊の王国 』 で、このルカの箇所の解説があった。 “ 十字架に釘づけにされた王の姿は、地上における神の国の逆説性を鮮やかに示している。・・・( 黙示録では )通常の価値が覆されていく ” と。主は極悪人として十字架で処刑された。「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。 ルカの福音書 23章35節」と嘲( あざけ )られても受難に甘んじる主を見て、サタンは薄笑いしながら勝利したと思った。ところが主は、復活によって事態を逆転したのだ。
※ 敗北だとしか考えられない「いま」を経験しているならば、主が「やがて、いまに」と保証する幸いが現実となると受け止めて待ち望ませて頂けることは、何という恵み !! へブル人への手紙 10章35~39節に留まりたい、と。
今朝は、27節 「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います」と、更に熱を入れて語られる、35節b’ 「そうすれば・・・あなたがたは、いと高き方の子どもになれます」と言って頂いているお言葉に注目したい。
① 「いと高き方の子どもになれる」とは ?
一言で、神のご性質に与ることを意味している。
新約聖書ではルカのみが用いている( 1章32、35、76節 )神を呼ぶのに用いる名称であるが、私たちがイメージするのに、イザヤ書 6章の記事が助けとなるでしょう。
同 1節 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた王座に座しておられる主を見た」、このことではないだろうか。
ヨハネは、「イザヤがイエスの栄光を見た」と言っているが( ヨハ 12・41 )、聖父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三位の神ご自身であることは言うまでもない。
イザヤ書 6章3~5節 「 『 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。 』 その叫ぶ者の声のために、敷居の基( もとい )はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『 ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから 』 」とは、イザヤが聖なるお方の臨在に圧倒されて、身震いした光景である。
テモテへの手紙 第一 6章16節には「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」とある。
このお方のご性質に与るという事は、本来あり得ないこと。にも拘らず「いと高き方の子どもになれます」とは !!
② ここで啓示されている「いと高き方」とは ?
「聖」というご性質から出る「愛、神のみが持っておられるアガペーの愛」なるお方であるとの啓示である。
主がここで「しなさい」と勧められる一つ一つは、アガペーの愛をもってでなければ実行不可能である。
27節 「わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」、28節 「あなたをのろう者を祝福しなさい」、29節 「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい」、31節 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい ⇒ 人に求めるなら、先ず自分自身が人に実践すべきこと」、35節 「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい」、36節 「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」、37節 「さばいてはいけません。・・・人を罪に定めてはいけません。・・・赦しなさい」、38節 「与えなさい」と。
神の愛の特質は、何と言っても 《 敵を愛する愛 》 にある。
ローマ人への手紙 5章6節 「私たちがまだ弱かったとき」、8節 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を明らかにし・・・」、10節 「もし敵であった私たちが・・・」とあり、紛れもなくこの「私」をさえも、愛するお方であると。
私たちは、32~34節 「・・・したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ・・・愛しています」とある様に、「自分を愛する者を愛」し、「自分に良いことをしてくれる者に良いことを」し、「返してもらうつもりで人に貸」す者でしかない。まかり間違えば、愛され、良くしてくれる者に、必ずしもそうでないかも知れない。
③ 「いと高き方の子ども」となるには ?
35節 「そうすれば・・・なれます」とは、恰( あたか )も実行したら「な」るかのように聞こえるが、そうではない。その姿勢こそ「いと高き方の子ども」との証を持つの意。その為には・・・
a. 主が言われる一つ一つの勧めの前に、兎に角、難しいとして頭から諦め出す態度を慎むこと。
b. 実際、どの戒めのどの部分で出来ないのかについて聖霊の光を受け、その正体を明白にして頂くことである。
ヨナは、アッシリヤ宣教を命じる主に抵抗して従わなかった。ヨナ書 4章1~3節は、その不服従の理由であるが、ヨナには、主の愛とは相容れない肉的利己主義があった。主は、ヨナにご自身の重荷を伝えて、同 4~11節 「あなたは当然のことのように怒るのか・・・」と諭し、徹底的に扱われた。
c. ガラテヤ人への手紙 5章22~25節 「御霊の実は、愛・・・。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」にある霊的経験を明確にすること。
※ 高尚な生涯への招きに与るべく、信仰の歩みを。
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