聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 24


ルカの福音書6章20節~26節

先回は、主が ※ 13節 「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」記事に学んだ。

ⅰ 何故、弟子たちを「使徒」として選ばれたのか ?
「十二使徒」選出は、公的生涯半ばにしてのこと。日を追う毎に増しに加わるジレンマの直中で、主の現時点での必要と共に、近い将来、主が天に召されて後の必要の為にである。
マルコの福音書 3章14、15節では、「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるため」と、その目的を明確にしている。

ⅱ どのようにして ?
12、13節 「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、・・・」とあり、慎重に聖父の御心を祈り求めてである。

ⅲ どのような人々を「使徒」として選出されたのか ?
使徒の働き 4章13節 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが」とある。イスカリオテのユダ( エルサレム出身と言われている )以外は、田舎者とされていたガリラヤ出身で漁師、取税人であり、人間的標準においては、見込みのない人々であった。高学歴がある訳でもない。しかし主が目を留められたところは、外的に認められる点での可能性ではなく、内的可能性にあった。

※ 主の働きが、人間的な力量でなされるものではないから、使徒の選出を祈りの内に導かれた主の姿勢に倣いたい、と。


今朝お読みした記事は、マタイの福音書 5章で親しんで来ている山上の説教と同じものであったかどうか議論されている部分ですが、同じ時のものであったのか、ないのかの問題はさておき、主が何度も「いまは、やがて、いまに」と繰り返して言われるおことばに注目しながら、三つの事を。

① 主は、何をもって「幸いです」と言われるのか ?

20節 「貧しい者は幸いです」と。マタイの福音書では「心の貧しい者」と言っているのに対して、ルカは、経済的な意味で言っているが、どういう意味で「幸い」なのか ?
ある時主が、ある富める若き司を迎えた時のことです。
※ 18章24~26節 「イエスは彼を見てこう言われた。『 裕福なものが神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。 』 これを聞いた人々が言った。『 それでは、だれが救われることができるでしょう。 』 」と、やり取りがあった。「それでは、だれが」と、肉は皆、経済的豊かさを祝福と見做し、神の国に入ることにおいてですら、そうだと考える傾向があったことを伝えている。
得てして、皆同様では ? 決して、「貧しい者は幸いです」と言われても・・・と。主の言われる意味は ? それは、先の富める司が、※ 18節 「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と尋ねたことで分かる。富は、彼に祝福を与えるとは限らないと。かえって人を縛り、神を求めさせない魔物となり兼ねない。

しかし「貧しさ」は頼るべき物がないという現実を前に、それによって神により頼む機会を得て、神を経験させることに導く。6章21節 「いま飢えている者は幸いです」。21節c 「いま泣いている者は幸いです」にも同様。
マタイでは、貧しさについて「心の」と言い、「悲しむ」と言っているのは、霊的な意味合いで語られているが、ここルカでは、地上生涯における「いま」現実的に経験する 《 貧しさ、飢え、涙する 》 生活のこととして語られている。
何故、幸いなのでしょうか ?
20節b’ 「神の国はあなたがたのものですから」、21節a’ 「あなたがたは、やがて飽くことが出来ますから」、21節c’ 「あなたがたは、いまに笑うようになりますから」と。
更に、信仰生活の面では、22、23、「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい」と。
何故でしょうか ?
23節b 「天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです」と。

② 主は、何をもって「哀れな者」と言われるのか ?

24節 「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です」、25節ac「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。・・・いま笑っているあなたがたは、哀れな者です」と。
この富んでいること食べ飽きていること、笑っていることも又、「いま」という現実的に経験する 《 あたかも、祝福されているかのように見受けられる豊かさ 》 のこと。
何故でしょうか ? 24節b 「慰めを、すでに受けているからです」、25節bc'「やがて、飢えるようになるからです。・・・やがて悲しみ泣くようになるからです」。
更に、霊的生活面では、26節 「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」と。

③ 主の示されるこの価値観は、実証された。

各例会で学んでいる 『 小羊の王国 』 で、このルカの箇所の解説があった。 “ 十字架に釘づけにされた王の姿は、地上における神の国の逆説性を鮮やかに示している。・・・( 黙示録では )通常の価値が覆されていく ” と( 94ページ参照 )。
確かに主が、極悪人として十字架で処刑された。
主が「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。 ルカの福音書 23章35節」と嘲( あざけ )られても受難に甘んじられた時、その主を見て、薄笑いしたサタンは勝利したと思った。ところが主は、復活によって事態を逆転したのだ。

※ 私たちは敗北だとしか考えられない「いま」を経験しているだろうか ? 主が「やがて、いまに」と保証する幸いを現実と受け止めて待ち望ませて頂けることは何という恵み !! へブル人への手紙 10章35~39節に留まりたい。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」。

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