聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 23


ルカの福音書6章12節~19節

先週はパリサイ人と交わされた論争の四つ目のもの 《 安息日の問題 ※ 5節 「人の子は、安息日の主です」 》 に学んだ。

ⅰ 先ず、「安息日」について :
この聖句は、出エジプト記 20章8~11節に出て来る 《 モーセの十戒の第四番目 》 のもの。キャンベル・モルガンが伝えている安息日の意義について “ 人は生涯を通して、周期的に物質的なものから霊的なものに、完全に立ち帰るべきである。周期的に安息日が来ることによって、毎日が神の御旨の中に測られ、計画されていることを思うべきである ” と語っている内容を改めて考えた。
この霊的祝福の為には、どうしても肉体を労働から引き離す必要があるということ。私たちは、のべつ幕無しに労働する結果がどのようなものであるのか、論をまたない。

ⅱ 「安息日の主です」について :
この事実から、労働時間の苛酷さが問題視されている現代社会にあって、この戒めが如何に侮られているかが分かる。神を、神の神たる座から引きずり降ろしている恐ろしい時代なのだ。従ってこの「主です」とは、十戒を与えられた神の権威を、人々の生活の中心に据え、この命令を生き方そのものに取り戻すことを意味している。

ⅲ 同時に主が語られた、9節 「安息日」に為すべきことについて:
ひもじい者への配慮【3、4節】、右手のなえた人への癒し【8、10節】に応えるべきこと。何故なら、律法の中心は 《 愛 》 であり、主なる神は愛だから。ローマ人への手紙 13章8~10節。

※ 安息日の意義を見直し、主を安息日の主として生活をと。


今朝は、主が ※ 13節 「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた」記事に学びたい。

① 何故、弟子たちを「使徒」という名で召されたのか ?

この「使徒」とは 《 使者・大使・特別な使命を帯びて派遣された者 》 の意であるが、こうして「使徒」として十二人を召されたのは、公的生涯半ばにしてのことである。
13節 「弟子たちを呼び寄せ、その中から」とあるが、その弟子の数が、17節を見ると、「多くの弟子たちの群れ」となっているのを見る。しかも、17節c 「ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた」とある。
その人々は皆、18、19節 「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた」と。
こうした日々の働きから、当然見えて来るものは、「人の子」として肉体的制約を受けられてのご奉仕に伴う限界と、日々迫りくる多くの求めに、悉( ことごと )く応えようとされる主の情熱との狭間でのジレンマである。
こうしたジレンマが日を追う毎に増しに加わる直中で、この「使徒」選出こそ最優先事とされたのだ。これは主の現時点での必要であると共に、近い将来、主が天に召されて後の必要の為である。このビジョンは、昇天直前の使徒たちへの宣教命令( マタイの福音書 28章19節 )からも伺えること。
並行記事マルコの福音書 3章14、15節では、「それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるため」と、その目的を明確にしている。
この「身近に置」くことによてである、ここに鍵が !!
主はご奉仕を継続しつつ、彼らの養成に専念されたのだ。それだからというので、民衆からの必要に応えられなくなったということではない。生活を共にする中で、訓練を。

② どのようにして ?

12、13節 「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ」とある。先程触れたが、公的生涯に入られてから、一年半の経過を見られてのことで、「使徒」選出の為に、慎重に聖父の御心を求めるのに時間を掛けられた。
実は、先に学んだ主のジレンマの問題は、公的奉仕開始後、間もなくのことであった。日々必要が迫られつつも、必要だからというので性急に事を進めずに迎えられた今、これまでも祈りの課題だったが、今、祈りの中で最終的な決断に導かれたのだ。
ヨハネの福音書 5章30節 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです」が、主の「人の子」としての弁( わきま )えだった。
私たちの生活も又、果たして同様だろうか ?
主は受洗後、従って来たバプテスマのヨハネの弟子に声を掛けたことを契機に、幾人かが働きに伴い始めたものの、弟子としての召しは一年後、更にその半年後にこの「使徒」選出である。何と !! おおよそ、三年余のご奉仕半ばにしてのこと。

③ どのような人々を「使徒」として選出されたのか ?

使徒の働き 4章13節 「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが・・・」とある。イスカリオテのユダ( エルサレム出身と言われているが )以外は、田舎者とされていたガリラヤ出身で、漁師、取税人であり、人間的標準からするならば見込みのない人々だった。高学歴があった訳でもない。
神の選びについて語っている ※ コリント人への手紙 第一 1章26~31節を見るならばそれは「神の御前でだれをも誇らせないためです」と。
十二人のうち、主を裏切るユダが選出されていることに、何故 ? と疑問を抱くだろうか ? ユダの名は賛美を意味し、ユダは両親が彼に抱いた希望を背負っていた。もし、この選出に問題を感じるなら、ある人が “ あなたが救われたのは何故 ? と聞くのと同じだ ” と言った言葉を考えたい。
とことん、如何なる者にもチャンスがあるということ。初めの愛、明け渡しの献身なくして召されることは、他の弟子同様あり得ないだろう。ユダも持っていたのだ。

※ 主の働きが、人間的な力量で為されるものではない為、使徒の選出を祈りの内に導かれた主の姿勢に倣いたい。

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