ルカの福音書6章1節~11節
先週は 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第三番目のもので、断食のことから、如何にも “ 自分たちは真っ当な敬虔な信仰者、断食しない主の弟子たちは何という不届き者、不敬虔極まりなし ” とする心の態度を正されたことに学んだ。
主は、彼らに “ わたしもしている、弟子たちにも指導している ” と弁解なさらず、彼らの貧しい霊的状態に向き合われた。
39節は、主の容認ではない。彼らの強情な言い分を代弁し、「新しい物を望」まない、即ち、主の新しい光・真理を好まずに退け、いつまでも従来通りの生き方、形を重んじ、自己満足的な生き方を良しとする態度への警告である。
この39節に導く為に、主は、36、37節のたとえを。
即ち、新しい布は収縮性に富んでいるので、収縮性を失ってしまった古い布に継ぎ合わせることは出来ない。同じように、新しいぶどう酒は醗酵して膨張するので、伸び切ってしまった古い皮袋の中に入れることは出来ないと語って二つの事を。
ⅰ 主が与える新しい真理【新しい布・ぶどう酒】は、ユダヤ教の古い形式主義に生きる人々には耐えられないとの事実。
パウロが、教会を迫害したことに顕著。
ⅱ しかし、主の与える新しい真理を受け入れる為に、38節 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」に従うべきであること。
教会を迫害したパウロが、主からの強い光を受けた時、明らかにされた自らの紛れもない罪の事実の前に、謙らせられたようにである。
※ 今日という今日、新しい光に従うお互いでありたい、と。
今朝は、パリサイ人と交わされた論争の四つ目のもので、《 安息日に関する問題 》 に注目したい。
問題の発端は、パリサイ人が、6章1節 「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘( つ )んで、手でもみ出しては食べていた」ことと、6節 「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた」ことからである。
パリサイ人たちは、悉( ことごと )く問題だとして抗議して来た。
2節 「すると、あるパリサイ人たちが言った。『 なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。 』 」、7節 「そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」と。主は冷静に対応された !!
3節 「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか」。8~10節 「イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、『 立って、真ん中に出なさい 』 と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。『 あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。 』 そして、みなの者を見回してから、その人に、『 手を伸ばしなさい 』 と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった」というのだ。
何と彼らの結末は、11節 《 理性の喪失と殺意 》 である。
さて今朝は、こうしたやり取りから、安息日について主が言われた ※ 5節 「人の子は、安息日の主です。」に学びたい。
① 先ず、「安息日」について :
この聖句は、出エジプト記 20章8~11節 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である・・・」とあり、 《 モーセの十戒の第四番目 》 に出て来るものである。
週報に連載している、キャンベル・モルガン著 『 十戒 』 の【第四戒の部分】を読み返して頂けたらと思うが、このような文面があった。 “ 人は生涯を通して、周期的に物質的なものから霊的なものに、完全に立ち帰るべきである。周期的に安息日が来ることによって、毎日が神の御旨の中に測られ、計画されていることを思うべきである。・・・人の全存在が神に属するものであり、その幸福は、神の支配において限定されている事実を、記憶していなければならない。・・・安息日の平和な静けさから、人は( 神を意識した人として )六日間の必要で目まぐるしい生活に戻ったのである。安息の間に交わった相手の高潔と正直とが、労働している時にも人に触れ、感化を与えたのである。・・・キリストが来臨した時まで、人々は安息日に向かって働いて来た。だが、キリストが来臨してから後は、人々は安息日から労働を始めるのである。 連載28、30、31より抜粋 ” と。安息日の意義について、このように語られていた。
この霊的祝福の為には、どうしても肉体を労働から引き離す必要があるということ。私たちは、のべつ幕無しに労働する結果がどのようなものであるのか、論をまたない。
② 「安息日の主です」について :
こうして考える時、労働時間の苛酷さが問題視されている現代社会にあって、この戒めが如何に侮られているかが分かる。神を、神の神たる座から引きずり降ろしている恐ろしい時代なのだ。従ってこの「主です」とは、十戒を与えられた神の権威を、人々の生活の中心に据え、この命令を生き方そのものに取り戻すことを意味している。
取り戻すことこそ、神が意図していて下さる 《 人類への至福、愛する愛 》 にお応えする、神への愛の告白だから。
にも拘らず、人々は神の命令を疎( うと )んじ、自らの生活の便利さ快適さを追求する余り働きに没頭し、その追求に誇りすら感じて身を亡ぼしているのに気付かない。私たちは ?
マルコの福音書 2章27節 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」。
安息日の規則を守ることに終始するパリサイ人は、安息日で得るべき霊的安息に与るどころか、唯、人が守っているか ? いないか ? の観察に明け暮れする、何という惨めさ !! 彼らは安息日の為に神経をすり減らすのだった。
③ 同時に主が語られた、9節 「安息日」に為すべきことについて :
ひもじい者への配慮【3、4節】、右手のなえた人への癒し【8、10節】に応えるべきこと。何故なら 律法の中心は 《 愛 》 であり、主なる神は愛だから ⇒ ローマ人への手紙 13章8~10節 「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」。
※ 安息日の意義を見直し、主を安息日の主としての生活を。
先週は 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第三番目のもので、断食のことから、如何にも “ 自分たちは真っ当な敬虔な信仰者、断食しない主の弟子たちは何という不届き者、不敬虔極まりなし ” とする心の態度を正されたことに学んだ。
主は、彼らに “ わたしもしている、弟子たちにも指導している ” と弁解なさらず、彼らの貧しい霊的状態に向き合われた。
39節は、主の容認ではない。彼らの強情な言い分を代弁し、「新しい物を望」まない、即ち、主の新しい光・真理を好まずに退け、いつまでも従来通りの生き方、形を重んじ、自己満足的な生き方を良しとする態度への警告である。
この39節に導く為に、主は、36、37節のたとえを。
即ち、新しい布は収縮性に富んでいるので、収縮性を失ってしまった古い布に継ぎ合わせることは出来ない。同じように、新しいぶどう酒は醗酵して膨張するので、伸び切ってしまった古い皮袋の中に入れることは出来ないと語って二つの事を。
ⅰ 主が与える新しい真理【新しい布・ぶどう酒】は、ユダヤ教の古い形式主義に生きる人々には耐えられないとの事実。
パウロが、教会を迫害したことに顕著。
ⅱ しかし、主の与える新しい真理を受け入れる為に、38節 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」に従うべきであること。
教会を迫害したパウロが、主からの強い光を受けた時、明らかにされた自らの紛れもない罪の事実の前に、謙らせられたようにである。
※ 今日という今日、新しい光に従うお互いでありたい、と。
今朝は、パリサイ人と交わされた論争の四つ目のもので、《 安息日に関する問題 》 に注目したい。
問題の発端は、パリサイ人が、6章1節 「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘( つ )んで、手でもみ出しては食べていた」ことと、6節 「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた」ことからである。
パリサイ人たちは、悉( ことごと )く問題だとして抗議して来た。
2節 「すると、あるパリサイ人たちが言った。『 なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。 』 」、7節 「そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」と。主は冷静に対応された !!
3節 「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか」。8~10節 「イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、『 立って、真ん中に出なさい 』 と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。イエスは人々に言われた。『 あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。 』 そして、みなの者を見回してから、その人に、『 手を伸ばしなさい 』 と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった」というのだ。
何と彼らの結末は、11節 《 理性の喪失と殺意 》 である。
さて今朝は、こうしたやり取りから、安息日について主が言われた ※ 5節 「人の子は、安息日の主です。」に学びたい。
① 先ず、「安息日」について :
この聖句は、出エジプト記 20章8~11節 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である・・・」とあり、 《 モーセの十戒の第四番目 》 に出て来るものである。
週報に連載している、キャンベル・モルガン著 『 十戒 』 の【第四戒の部分】を読み返して頂けたらと思うが、このような文面があった。 “ 人は生涯を通して、周期的に物質的なものから霊的なものに、完全に立ち帰るべきである。周期的に安息日が来ることによって、毎日が神の御旨の中に測られ、計画されていることを思うべきである。・・・人の全存在が神に属するものであり、その幸福は、神の支配において限定されている事実を、記憶していなければならない。・・・安息日の平和な静けさから、人は( 神を意識した人として )六日間の必要で目まぐるしい生活に戻ったのである。安息の間に交わった相手の高潔と正直とが、労働している時にも人に触れ、感化を与えたのである。・・・キリストが来臨した時まで、人々は安息日に向かって働いて来た。だが、キリストが来臨してから後は、人々は安息日から労働を始めるのである。 連載28、30、31より抜粋 ” と。安息日の意義について、このように語られていた。
この霊的祝福の為には、どうしても肉体を労働から引き離す必要があるということ。私たちは、のべつ幕無しに労働する結果がどのようなものであるのか、論をまたない。
② 「安息日の主です」について :
こうして考える時、労働時間の苛酷さが問題視されている現代社会にあって、この戒めが如何に侮られているかが分かる。神を、神の神たる座から引きずり降ろしている恐ろしい時代なのだ。従ってこの「主です」とは、十戒を与えられた神の権威を、人々の生活の中心に据え、この命令を生き方そのものに取り戻すことを意味している。
取り戻すことこそ、神が意図していて下さる 《 人類への至福、愛する愛 》 にお応えする、神への愛の告白だから。
にも拘らず、人々は神の命令を疎( うと )んじ、自らの生活の便利さ快適さを追求する余り働きに没頭し、その追求に誇りすら感じて身を亡ぼしているのに気付かない。私たちは ?
マルコの福音書 2章27節 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」。
安息日の規則を守ることに終始するパリサイ人は、安息日で得るべき霊的安息に与るどころか、唯、人が守っているか ? いないか ? の観察に明け暮れする、何という惨めさ !! 彼らは安息日の為に神経をすり減らすのだった。
③ 同時に主が語られた、9節 「安息日」に為すべきことについて :
ひもじい者への配慮【3、4節】、右手のなえた人への癒し【8、10節】に応えるべきこと。何故なら 律法の中心は 《 愛 》 であり、主なる神は愛だから ⇒ ローマ人への手紙 13章8~10節 「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」。
※ 安息日の意義を見直し、主を安息日の主としての生活を。
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