ルカの福音書5章33節~39節
先週は 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第二のもので、30節 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた彼らを、主が、32節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と正されたおことばに注目した。
ⅰ 「正しい人」とは ?
直接、30節b’ 「なぜ、あなたがたは」と呟いた「パリサイ人や律法学者たち」を意識されて言われた。律法を極端に重んじて613もの細則を作り、それを守る自らを「正しい人」と自負し、守らない者を罪人としたが、主はこれを惨めな思い込み、自らを正確に見ていない盲目と言われた。
ⅱ 「罪人」とは ?
パリサイ人たちが「罪人」と呼んでいる意味合いとは違い、自らの霊的貧困状態を認め、その現状を悲しみ、救いに渇いている人のこと。パリサイ人たちから「罪人」呼ばわりされている人々こそ、主の招かれる「罪人」。
何故なら、彼らこそ、パリサイ人や律法学者たちの語る儀式主義的信仰に満足せず、真実を求めて悩んでいた人々だったからである。彼ら宗教家たちによって蔑視され、会堂から追放されようが、真実を求めて渇く人々だったから。
31節 「医者を必要とする・・・病人」、罪という人の手ではどうすることも出来ない「病」に気付き、罪からの癒しを与える医者を求めている人々だったから。
※ パリサイ人も、自ら「罪人」であるとの正直な自覚に導かれさえすれば良い。聖霊の光に素直でありたいと。
今朝は、論争の三番目のもので 《 断食のことから 》 である。
パリサイ人が問題視し抗議したのは、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」というものだった。
主はこの抗議に対して、34、35節 「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」と答えられた。
この聖句を、リビングバイブル訳は極めて平易に、「しあわせな人が断食しますか。結婚披露宴で、花婿の招待客がお腹をすかしたままでいることがあるでしょうか。もちろん、ありえません。しかし、花婿が彼らから引き離される日が来ます。その時こそ、断食するのです。」とある。
一見、主は断食を不必要だとしておられるかのように思われるが、そうではない。マタイの福音書 17章21節 「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と、むしろ勧めておられ、必要不可欠だとさえ言われるのだから。
主は断食を重視しておられる。それでは何故 ? 今ではなく、後にと言うだけで片付けられたのか ? 彼らに必要なのは、断食についての云々ではなかったから。彼らが「断食をしており、祈りもしています。・・・食べたり飲んだりして」と、如何にも 《 自分たちは真っ当な敬虔な信仰者、断食しない主の弟子たちは何という不届き者、不敬虔極まりなし 》 とする心の態度を問題にする必要を感じられたからである。
そのような訳で、36~39節のたとえを持ち出されたのだ。
彼らの「している」と自負する断食には、主の聖前での価値・意味など全くなかった。主は、彼らに “ わたしもしている、弟子たちにも指導している ” と言おうと思われれば幾らでも言うことも出来たが、弁解の必要を覚えられず、直ちに、彼らの失われた貧しい霊的状態に向き合われた。
彼らが扱われなければならなかったこととは ?
39節 「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『 古い物は良い 』 と言うのです」と言い張って、決して「新しい物を望」もうとしない、受け入れようとしない 《 パリサイ人の頑( かたく )なさ、強情さ 》 だった。
主はこの聖句を容認して仰っておられるのではなく、問題だと言わんが為に持ち出された。
即ち、主が人々の心を照らす光として来られて以来届けられることになった新しい真理、人々はその新しい光・真理を好まずに退け、いつまでも従来通りの生き方、即ち形を重んじ、自己満足的な生き方を以って、それで良しとすることへの忠告、警告としてのおことば。
事実、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。・・パリサイ人の弟子たちも・・・」と、18章12節 「週に二度断食」したのだ。彼らの動機は、マタイの福音書 6章16~18節 「・・・断食していることが人に見えるようにと・・・」にあった。あくまでも断食は、自発的なものであって、単なる習慣として行うことには意義も価値もないにも拘らず。
この39節に導く為に、主は、36、「新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません」というたとえと、37、「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません」との話をなさった。
そして、其々、もしそのようなことでもすれば、36節d 「その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」、37節b’ 「新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます」と。
即ち、新しい布は収縮性に富んでいるので、収縮性を失ってしまった古い布に継ぎ合わせることは出来ない。同様に、新しいぶどう酒は醗酵して膨張するので、伸び切ってしまった古い皮袋の中に入れることは出来ない。
主は、頑( かたく )ななパリサイ人に、二つの勧めを与えられた。
① 主が与える新しい真理【新しい布・ぶどう酒】は、ユダヤ教の古い形式主義に生きる人々には耐えられないもの。
パウロが、教会を迫害したことに顕著。
② しかし、主の与える新しい真理を受け入れる為に、38節 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」に従うべきであること。
教会を迫害したパウロが、主からの強い光を受けた時、明らかにされた自らの紛れもない罪の事実の前に、謙らせられたようにである。
※ 今日という今日、新しい光に従うお互いでありたい。
先週は 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第二のもので、30節 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた彼らを、主が、32節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と正されたおことばに注目した。
ⅰ 「正しい人」とは ?
直接、30節b’ 「なぜ、あなたがたは」と呟いた「パリサイ人や律法学者たち」を意識されて言われた。律法を極端に重んじて613もの細則を作り、それを守る自らを「正しい人」と自負し、守らない者を罪人としたが、主はこれを惨めな思い込み、自らを正確に見ていない盲目と言われた。
ⅱ 「罪人」とは ?
パリサイ人たちが「罪人」と呼んでいる意味合いとは違い、自らの霊的貧困状態を認め、その現状を悲しみ、救いに渇いている人のこと。パリサイ人たちから「罪人」呼ばわりされている人々こそ、主の招かれる「罪人」。
何故なら、彼らこそ、パリサイ人や律法学者たちの語る儀式主義的信仰に満足せず、真実を求めて悩んでいた人々だったからである。彼ら宗教家たちによって蔑視され、会堂から追放されようが、真実を求めて渇く人々だったから。
31節 「医者を必要とする・・・病人」、罪という人の手ではどうすることも出来ない「病」に気付き、罪からの癒しを与える医者を求めている人々だったから。
※ パリサイ人も、自ら「罪人」であるとの正直な自覚に導かれさえすれば良い。聖霊の光に素直でありたいと。
今朝は、論争の三番目のもので 《 断食のことから 》 である。
パリサイ人が問題視し抗議したのは、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」というものだった。
主はこの抗議に対して、34、35節 「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」と答えられた。
この聖句を、リビングバイブル訳は極めて平易に、「しあわせな人が断食しますか。結婚披露宴で、花婿の招待客がお腹をすかしたままでいることがあるでしょうか。もちろん、ありえません。しかし、花婿が彼らから引き離される日が来ます。その時こそ、断食するのです。」とある。
一見、主は断食を不必要だとしておられるかのように思われるが、そうではない。マタイの福音書 17章21節 「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と、むしろ勧めておられ、必要不可欠だとさえ言われるのだから。
主は断食を重視しておられる。それでは何故 ? 今ではなく、後にと言うだけで片付けられたのか ? 彼らに必要なのは、断食についての云々ではなかったから。彼らが「断食をしており、祈りもしています。・・・食べたり飲んだりして」と、如何にも 《 自分たちは真っ当な敬虔な信仰者、断食しない主の弟子たちは何という不届き者、不敬虔極まりなし 》 とする心の態度を問題にする必要を感じられたからである。
そのような訳で、36~39節のたとえを持ち出されたのだ。
彼らの「している」と自負する断食には、主の聖前での価値・意味など全くなかった。主は、彼らに “ わたしもしている、弟子たちにも指導している ” と言おうと思われれば幾らでも言うことも出来たが、弁解の必要を覚えられず、直ちに、彼らの失われた貧しい霊的状態に向き合われた。
彼らが扱われなければならなかったこととは ?
39節 「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『 古い物は良い 』 と言うのです」と言い張って、決して「新しい物を望」もうとしない、受け入れようとしない 《 パリサイ人の頑( かたく )なさ、強情さ 》 だった。
主はこの聖句を容認して仰っておられるのではなく、問題だと言わんが為に持ち出された。
即ち、主が人々の心を照らす光として来られて以来届けられることになった新しい真理、人々はその新しい光・真理を好まずに退け、いつまでも従来通りの生き方、即ち形を重んじ、自己満足的な生き方を以って、それで良しとすることへの忠告、警告としてのおことば。
事実、33節 「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。・・パリサイ人の弟子たちも・・・」と、18章12節 「週に二度断食」したのだ。彼らの動機は、マタイの福音書 6章16~18節 「・・・断食していることが人に見えるようにと・・・」にあった。あくまでも断食は、自発的なものであって、単なる習慣として行うことには意義も価値もないにも拘らず。
この39節に導く為に、主は、36、「新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません」というたとえと、37、「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません」との話をなさった。
そして、其々、もしそのようなことでもすれば、36節d 「その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです」、37節b’ 「新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます」と。
即ち、新しい布は収縮性に富んでいるので、収縮性を失ってしまった古い布に継ぎ合わせることは出来ない。同様に、新しいぶどう酒は醗酵して膨張するので、伸び切ってしまった古い皮袋の中に入れることは出来ない。
主は、頑( かたく )ななパリサイ人に、二つの勧めを与えられた。
① 主が与える新しい真理【新しい布・ぶどう酒】は、ユダヤ教の古い形式主義に生きる人々には耐えられないもの。
パウロが、教会を迫害したことに顕著。
② しかし、主の与える新しい真理を受け入れる為に、38節 「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」に従うべきであること。
教会を迫害したパウロが、主からの強い光を受けた時、明らかにされた自らの紛れもない罪の事実の前に、謙らせられたようにである。
※ 今日という今日、新しい光に従うお互いでありたい。
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