聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 20


ルカの福音書5章27節~32節

先週は、5章17節~6章11節まで続く 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第一のもので、20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」との主の宣言を目撃した律法学者、パリサイ人たちが、21節 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ」と異議を唱えた 《 罪の赦しの問題 》 に注目した。
もう既に、主の働きは一年を経過しており、その評判が、ガリラヤ地方のみならず、エルサレムにまで及んでいた為、民衆からは好意的に受け入れられる一方、議会からは危機感をもって観察されるようになって来た時期のこと。
しかし主は、それと知りながらも言動の全て、24節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」との重荷をもって働かれた、そこに注目。

ⅰ 主のパリサイ人への重荷 :
常に反抗的なパリサイ人も、福音に触れるチャンスを与えられるべきとの魂への重荷からである。21~24節は、彼らとの懇( ねんご )ろな関わりである !! 抗議する彼らを悟らせようと時間を取られた。しかも、23節 「・・・どちらがやさしいか」と、平易な問い掛けをもってである。

ⅱ 主の求めて来る者への重荷 :
17節 「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられ」、実際生活への関心は大。しかし究極の救いが、20節 「友よ。あなたの罪は赦されました」にあることを伝えたく腐心された。私たちの主への求めも又、先ず、内的渇望こそ主の願いであると見て、祈りを吟味したい。

※ 主を贖い主であることをもって賛美する者でありたいと。


今朝は、5章1~11節のペテロたちに次いで、27節 「わたしについて来なさい」と言われた取税人レビ【別名・マタイ】の召命の記事からですが、先週学びましたように 《 パリサイ人たちとの四つの論争 》 の第二のもので、30節 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた 《 罪人たちと食事を共にする問題 》 に注目する。
レビが、28節 「すると・・・何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」そこに、何を私たちは見るだろうか ?
その時の様子を伝えるのに、レビ自らの手による 『 マタイの福音書( 9章9~13節 ) 』 は極めて控え目である。
と言うのも、ルカは、29節a 「レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが」と前置きして、※ 29節bで、「取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」ことに言及している。この「大ぜいの人たち」とは、パリサイ人が嫌悪して「罪人ども」と呼ぶ人々で、彼らが招れているのだ。
かなりの経済力があったと考えられる。しかし彼は、それらを潔く捨てたのだ。捨てただけでなく、早速仲間を招き、しかも、彼の招きに直ちに応じる罪人たちがいたと言うのだ。
彼のこの即刻の行動に、主に声を掛けられたことへの感動がどれ程のものであったのかが伝わって来る。
同時に、彼の感動にいち早く反応したパリサイ人の、30節 「すると・・・」の速さ、そこには彼らを蔑視する強さの現れが。
しかし今一つの速さを、主の ※ 31節 「そこで、イエスは答えて言われた」に見る。これは、主が如何に、彼らをして呟かせる肉を嫌悪しておられるか、その強さの現れなのだ。

今朝は、このようなピッチの早い動きの中で、最も注目すべき ※ 32節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」に注目したい。

① 「正しい人」とは ?

直接、30節b’ 「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と呟いた「パリサイ人や律法学者たち」を意識されて言われた。
この人々は、律法を極端に重んじた結果、その内容を無数の細目に区分して、248の積極的戒律、365の消極的戒律、合計613( 十戒の文字の数 )の戒律を順守した。これらを守らない人々を、罪人だとして軽蔑して交わろうとはしなかった。厳密に言って「正しい人」など、人の子となられた主を他にして存在しない。自分を「正しい人」だと自負するに過ぎない人のこと。主が彼らを、盲目だとされたのは、この惨めな思い込みの為に自分を知らないからである。
何故、彼らは自らを正しい人とするのか ? 彼らは、先程の戒律を守っていると自負するからである。守っているから正しい、守っていないから罪人であるとは、極めて楽観的・短絡的発想であり、自らを知らない恥ずべき誤算なのだ。
H・ナウエン著 『 放蕩息子の帰郷 』 98、99p
“ 兄息子の内に失われた状態を見付けることは、遥かに難しい。取り分け彼は、何時も正しい事を行なって来た。・・・しかし、弟息子の帰宅を喜んでいる父の姿を目にし、彼の内にある闇の力が表面に噴出して煮え返った・・・ ” の如くに。

② 「罪人」とは ?

パリサイ人たちが「罪人」と呼んでいる意味合いとは違い、自らの霊的貧困状態を認め、その現状を悲しみ、救いに渇いている人のこと。パリサイ人たちから「罪人」呼ばわりされている人々こそ、主の招かれる「罪人」。
何故なら、彼らこそ、パリサイ人や律法学者たちの語る儀式主義的信仰に満足せず、真実を求めて悩んでいた人々だったからである。彼ら宗教家たちによって蔑視され、会堂から追放されようが、真実を求めて渇く人々だったから。
31節 「医者を必要とする・・・病人」、罪という人の手ではどうすることも出来ない「病」に気付き、罪からの癒しを与える医者を求めている人々だったから。
レビ( マタイ )は、主からの声を聞くや否や、28節 「すると」と、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」。主の洞察に感動したからなのだ。願ってもない声掛けだったのだ。仕事柄、世の批判さえ忍べば、経済的保証はある立場を、レビに即刻捨てさせたのは、自らに目を留められた主の愛だった。レビの喜びようは ※ 29、30節にあると見た。
ヨハネの手紙 第一 4章9~11節 ⇒ ※ 10節 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」との事実、それを受けて ※ 11節 「神がこれほどまでに・・・愛してくださったのなら、私たちも」との主の愛に感動するが故の献身こそ、レビの経験なのだ。

※ パリサイ人も、自ら「罪人」であるとの正直な自覚に導かれさえすれば良い。聖霊の光に素直でありたい。

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