ルカの福音書5章1節~11節
先週は、主が、42節 「寂しい所に出て」、5章16節 「よく荒野に退いて」祈られたと語られているところに注目した。
主がご奉仕に携わられるや否や、民衆からの歓迎振りが尋常ではなかったこと、又そのご奉仕の多様性、悪霊による挑戦を受けての多忙な日々の様子を見て来た。そこでの祈り !!
ⅰ わざの全てを、聖父にお返しする為に退かれた。
主のご奉仕の全ては、ヨハネの福音書 17章4節 「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」の祈りに見られる姿勢にあったからである。
ⅱ 42b'、43節 「・・・イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。『 ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。 』 」と、実際的な必要が迫られる中、自らのご奉仕の究極的目的を再確認される為に退かれた。但し、わざが必要とされている場合でも、注意すべきことがおありだった。
ⅲ それが、5章15、16節 「しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は・・・」と、絶え間なく押し寄せて来る人々の必要に対して、手当たり次第応えようとはせず、先ず、聖父の必要に応えるべく、導きを求める為に退かれた。
※ 絶えざる聖父との交わりを求められた主に倣いたい、と。
今朝は、5章1節 「ゲネサレ湖【別名・ガリラヤ湖】」で、弟子たちを召された出来事に注目致します。
四つの福音書を紐解く時、この出来事は、主がガリラヤの町カぺナウムを宣教の拠点としてご奉仕を始められてから、1年は経過していることが分かる。ですから、ここでの主と弟子たちとは初対面ではない。既に、4章38節 「イエスは立ち上がって会堂を出て・・・すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた」とあるのは、かなり近い距離で行動を共にしていた証であり、使徒ヨハネは、主と弟子たちの出会いが一年前であったこと、そのそもそもの初めを伝えている。
それを、ヨハネの福音書 1章35~51節の記事に見る。
主が洗礼を受けられてから、悪魔の試みの後のことになる。
この時点で、《 40節 ※ アンデレ、ヨハネ、42節 ※ ペテロ、43節 ※ ピリポ、45節 ※ ナタナエル( 別名・バルトロマイ ) 》 の5名は出て来るが、この時から召命に至るまでの一年間、主が彼らを伴って行われたご奉仕について、使徒ヨハネだけが、ヨハネの福音書 2~5章で記録している。
因みに、2章では、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えられた奇蹟と、初めての宮きよめについて。3章では、ニコデモとの対話。4章では、サマリヤの女を訪ね、5章では、ベテスダの池での癒しがなされている。
今朝の記事から、このように一年余り主に同伴して、ある程度の働きに加わっていた彼らも、実は漁師としての仕事のかたわらでの奉仕だったことが分かる。ここで初めて、11節 「・・・何もかも捨てて、イエスに従った」ことで明確。
これ等を背景に、10節 「これから後【詳訳 : 今から】、あなたは人間をとるようになる」と言われた彼ら( マタイの福音書 4章18~22節、マルコの福音書 1章14~20節 )の直接献身に導かれた 《 今 》 とは、どの時点での事だったのかを見て、 《 主の弟子となる資格とは、どこに在るのか ? 》 を考えたい。
8節 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『 主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから 』 と言った」その 《 今 》 である。
ペテロは何と !! 自らの罪深さの自覚に導かれたのだ。
9節では、「大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いた」と、直接的な理由として、予想だに出来なかった桁外れの「大漁」を目の当たりにしたからだと伝えている。
事の発端を見てみたい。1節 「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき」、ゲネサレ湖の岸辺に立っておられた主が、3節 「シモンの持ち舟に乗り」、その舟からお話をされたとある。4節 「話が終わると、シモンに、『 深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい 』 と言われた」。
実は主からのこの指示に始まる。
ペテロの反応は、5節 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」とあるように、直ちに従う気にはなれなかった。当然獲れる筈の夜に獲れなかったのだから、無理な話だと考えたからである。漁師たちの常識である。
ところが無理だと抵抗したペテロの常識を覆す「大漁」を見た為、命じられた主への畏れから、「イエスの足もとにひれ伏して、『 主よ。私のような者から・・・ 』 」との謙りに導かれた。
しかし主が言われた「今」からとは、もっと深い意味での 《 ペテロの転機的、内的経験 》 があってのことと見なければならない。
それは「大漁」が明らかにしたペテロの今一つの事実 《 内的実情のおぞましい現実 》 に恐れを感じた「今」に。彼は、5節b’ 「でもおことばどおり・・・」とは言ったものの、その心の根にある主への不服従の性質、自負心による主への蔑( さげす )み。この経験は、預言者イザヤの経験【ウジヤ王が死んだ年に、神殿で受けた主の聖なる事実が放った強烈な光によって導かれた「ああ。私は、もうだめだ。 イザヤ書 6章1~5節」】に通じる。ペテロのこの時点では、内的腐敗性の深刻さには届いていないが、この経験に向かっての第一歩である。イザヤの経験に匹敵する霊的絶叫の経験は、後のペンテコステの日を待たなければならないからである。
その意味で、自らの霊的貧困状態を知った初めてのこの「今」の経験は重要なのだ。どの時点でも、この「私は罪深い人間です」との自覚こそ、その自覚が起こるその都度の経験こそ、主に従う者の本質的資格だということ。
主はそのペテロに、10節b’ 「こわがらなくてもよい」と告げられたからである。その時こそ、8節 「離れてください」ではなく、十字架に近づくべき時なのだと。
※ 11節 「何もかも捨てて」従った彼らの信仰こそ、主の求めておられる姿勢であると覚えて、互いの信仰としたい。
先週は、主が、42節 「寂しい所に出て」、5章16節 「よく荒野に退いて」祈られたと語られているところに注目した。
主がご奉仕に携わられるや否や、民衆からの歓迎振りが尋常ではなかったこと、又そのご奉仕の多様性、悪霊による挑戦を受けての多忙な日々の様子を見て来た。そこでの祈り !!
ⅰ わざの全てを、聖父にお返しする為に退かれた。
主のご奉仕の全ては、ヨハネの福音書 17章4節 「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」の祈りに見られる姿勢にあったからである。
ⅱ 42b'、43節 「・・・イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。『 ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。 』 」と、実際的な必要が迫られる中、自らのご奉仕の究極的目的を再確認される為に退かれた。但し、わざが必要とされている場合でも、注意すべきことがおありだった。
ⅲ それが、5章15、16節 「しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は・・・」と、絶え間なく押し寄せて来る人々の必要に対して、手当たり次第応えようとはせず、先ず、聖父の必要に応えるべく、導きを求める為に退かれた。
※ 絶えざる聖父との交わりを求められた主に倣いたい、と。
今朝は、5章1節 「ゲネサレ湖【別名・ガリラヤ湖】」で、弟子たちを召された出来事に注目致します。
四つの福音書を紐解く時、この出来事は、主がガリラヤの町カぺナウムを宣教の拠点としてご奉仕を始められてから、1年は経過していることが分かる。ですから、ここでの主と弟子たちとは初対面ではない。既に、4章38節 「イエスは立ち上がって会堂を出て・・・すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた」とあるのは、かなり近い距離で行動を共にしていた証であり、使徒ヨハネは、主と弟子たちの出会いが一年前であったこと、そのそもそもの初めを伝えている。
それを、ヨハネの福音書 1章35~51節の記事に見る。
主が洗礼を受けられてから、悪魔の試みの後のことになる。
この時点で、《 40節 ※ アンデレ、ヨハネ、42節 ※ ペテロ、43節 ※ ピリポ、45節 ※ ナタナエル( 別名・バルトロマイ ) 》 の5名は出て来るが、この時から召命に至るまでの一年間、主が彼らを伴って行われたご奉仕について、使徒ヨハネだけが、ヨハネの福音書 2~5章で記録している。
因みに、2章では、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えられた奇蹟と、初めての宮きよめについて。3章では、ニコデモとの対話。4章では、サマリヤの女を訪ね、5章では、ベテスダの池での癒しがなされている。
今朝の記事から、このように一年余り主に同伴して、ある程度の働きに加わっていた彼らも、実は漁師としての仕事のかたわらでの奉仕だったことが分かる。ここで初めて、11節 「・・・何もかも捨てて、イエスに従った」ことで明確。
これ等を背景に、10節 「これから後【詳訳 : 今から】、あなたは人間をとるようになる」と言われた彼ら( マタイの福音書 4章18~22節、マルコの福音書 1章14~20節 )の直接献身に導かれた 《 今 》 とは、どの時点での事だったのかを見て、 《 主の弟子となる資格とは、どこに在るのか ? 》 を考えたい。
8節 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『 主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから 』 と言った」その 《 今 》 である。
ペテロは何と !! 自らの罪深さの自覚に導かれたのだ。
9節では、「大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いた」と、直接的な理由として、予想だに出来なかった桁外れの「大漁」を目の当たりにしたからだと伝えている。
事の発端を見てみたい。1節 「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき」、ゲネサレ湖の岸辺に立っておられた主が、3節 「シモンの持ち舟に乗り」、その舟からお話をされたとある。4節 「話が終わると、シモンに、『 深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい 』 と言われた」。
実は主からのこの指示に始まる。
ペテロの反応は、5節 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」とあるように、直ちに従う気にはなれなかった。当然獲れる筈の夜に獲れなかったのだから、無理な話だと考えたからである。漁師たちの常識である。
ところが無理だと抵抗したペテロの常識を覆す「大漁」を見た為、命じられた主への畏れから、「イエスの足もとにひれ伏して、『 主よ。私のような者から・・・ 』 」との謙りに導かれた。
しかし主が言われた「今」からとは、もっと深い意味での 《 ペテロの転機的、内的経験 》 があってのことと見なければならない。
それは「大漁」が明らかにしたペテロの今一つの事実 《 内的実情のおぞましい現実 》 に恐れを感じた「今」に。彼は、5節b’ 「でもおことばどおり・・・」とは言ったものの、その心の根にある主への不服従の性質、自負心による主への蔑( さげす )み。この経験は、預言者イザヤの経験【ウジヤ王が死んだ年に、神殿で受けた主の聖なる事実が放った強烈な光によって導かれた「ああ。私は、もうだめだ。 イザヤ書 6章1~5節」】に通じる。ペテロのこの時点では、内的腐敗性の深刻さには届いていないが、この経験に向かっての第一歩である。イザヤの経験に匹敵する霊的絶叫の経験は、後のペンテコステの日を待たなければならないからである。
その意味で、自らの霊的貧困状態を知った初めてのこの「今」の経験は重要なのだ。どの時点でも、この「私は罪深い人間です」との自覚こそ、その自覚が起こるその都度の経験こそ、主に従う者の本質的資格だということ。
主はそのペテロに、10節b’ 「こわがらなくてもよい」と告げられたからである。その時こそ、8節 「離れてください」ではなく、十字架に近づくべき時なのだと。
※ 11節 「何もかも捨てて」従った彼らの信仰こそ、主の求めておられる姿勢であると覚えて、互いの信仰としたい。
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