ルカの福音書4章16節~30節
先週は、荒野における試みに勝利された後、14節 「御霊の力を帯びて」ご奉仕を開始された主に注目した。
その始まりは、14b、15、22節に見られるように、極めて好意的に迎えられ、前途は明るく輝かしくさえある。
それは ※ 21節 「イエスは人々にこう言って話し始められた。『 きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。 』 」との宣言を聞く前から、朗読される主に、未だ見たことのない品位・権威に、圧倒されていたからだ。
救い主待望の長い長い沈黙を破って発せられた主のお言葉、「きょう・・・実現しました」と聞いた会衆の皆が、主に釘付けにされ、身震いする程の畏れに見舞われたのは当然。
18節、に、派遣の目的が明らかにされている。
ⅰ 18節e 「捕らわれ人には赦免を」。
第一義的には【戦争の捕虜とされている人】のことであるが、主は罪の捕虜、「罪の奴隷」からの解放をもたらすと。
ⅱ 18節f 「盲人には目の開かれることを告げるため」。
主は文字通り、盲人の目を開かれるという奇蹟を行われた。しかし究極の意味は、霊的盲目の開眼である。
ⅲ 18節g 「しいたげられている人々を自由にし」。
地上生涯において理不尽だと思われる境遇によって「霊的に打ちのめされている人」のこと。困難な生活環境は、霊的にも影響を与えるが、その直中で勝利させるお方。
※ しかし、これら故の主への驚異的感動は ※ 22節b 「この人は・・・」との侮蔑的処遇に変わる。こうした反応こそ、主の今後の奉仕の象徴的場面だったと見て学びを進めたい、と。
今朝は、イザヤ書を朗読して、21節 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と仰る主を、22節 「みなイエスをほめ( ※ 証言する、確認する )、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」郷里ナザレの人々が、懐疑を抱き ※ 22節 「この人は、ヨセフの子ではないか。」と言い出し、主を侮辱する態度に出た点に注目したい。
このことは、主が公生涯に入られた初めての経験である。
彼らは一体、何が言いたかったのか ?
主の語るところには感動し、確かに救い主として認めざるを得なくされて称賛に値する品位・権威を感じた。それは、31、32節に出て来るカぺナウムの人々が感じたものと同様。
にも拘らず、何故彼らは、急変したのか ?
22節の言葉の先には、28、29節 「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」という、恐るべき事件があるのだ。この恐ろしさは、主に感動し、主を称賛した上で、殺意を抱き、殺害しようと怒り狂う事実にある。
果たして ※ 22節の段階で、彼らは「主を丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそう」と考えていただろうか ?
主は人の心を知るお方( ヨハネの福音書 2章24、25節 )。23節 「きっとあなたがたは、『 医者よ。自分を直せ。 』 というたとえを引いて、カぺナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言う・・・」との主の一言で最高潮に達し、28節 「これらのことを聞くと・・・怒り」となると。
主は、郷里の人々を扱われたのだ。
22節の、「この人は、ヨセフの子ではないか」と呟かせるその心の根にあるもの、心の奥の闇に光を当てられた。
この呟きは、ふと出た言葉。人間的には聞き流せるものかも知れない。彼らが、主に懐疑を抱いたことを当然だと考えれば、聞き流せる言葉。彼らは当たり前のように躓( つまず )いた。
マタイの福音書では、「 『 この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。・・・すると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。 』 こうして、彼らはイエスにつまずいた。13章54~57節」と。しかし「どこから」が明らかにされたにも拘らず、唯、パウロが「人間的な標準でキリストを知っていた・・・。 コリント人への手紙 第二 5章16節」と言っている 《 肉の目 》 が受入れさせない、頑( かたく )なさが障害となった。
しかし主は、聞き逃さずに直ちにその呟きを問題視された。
何故なら、彼らのその言葉は、主を殺害しようと謀らせる罪の恐るべき性質から出ていると知っておられたから。マタイの福音書 15章18~20節 「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と。
主が用いられた ※ 4章24~27節の言葉が、彼らの正体を露わにした。異邦人を神が用いられた旧約の出来事を引き合いに出して、昔も今も変わらず、預言者への扱いは同様だと触れ、同時に異邦人には神の顧みがあるとの重荷の吐露をなされた。
a. 25、26節 ⇒ 預言者エリヤの時代でのこと。
b. 27節 ⇒ エリシャの時でのこと。
何れも共通的なことは、25c、26節 「イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされた」、27節 「イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」と、イスラエル人が憎む異邦人を神の働きに起用されたという事実である。
彼らの言い分は、イエスとは自分たちと同じで、特別な家柄でもなく、自分たちを差し置いて、何処に取り柄があるというのか ? 何処に救い主となる素養があるというのか ? ・・・だった。その感情を、異邦人にも向けたのだ。
何という嫌悪すべき優越感に浸る自己顕示欲がそこに !!
自分以外の者が祝福されることに我慢できない !! のだ。
※ 30節 「しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた」とあるのは、主が如何に、肉なる性質を嫌悪しておられるかの顕著な証である。箴言には、「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手・・・。 6章16~19節」とある。私たちは、「行ってしまわれた」主の後ろ姿に、何を見るだろう ? 何という厳格な態度 !! 主の忌み嫌われる 《 肉なる性質 》 を内に見出させられたならば、直ちに嫌悪し、十字架の血による清めに与り続けたい。
先週は、荒野における試みに勝利された後、14節 「御霊の力を帯びて」ご奉仕を開始された主に注目した。
その始まりは、14b、15、22節に見られるように、極めて好意的に迎えられ、前途は明るく輝かしくさえある。
それは ※ 21節 「イエスは人々にこう言って話し始められた。『 きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。 』 」との宣言を聞く前から、朗読される主に、未だ見たことのない品位・権威に、圧倒されていたからだ。
救い主待望の長い長い沈黙を破って発せられた主のお言葉、「きょう・・・実現しました」と聞いた会衆の皆が、主に釘付けにされ、身震いする程の畏れに見舞われたのは当然。
18節、に、派遣の目的が明らかにされている。
ⅰ 18節e 「捕らわれ人には赦免を」。
第一義的には【戦争の捕虜とされている人】のことであるが、主は罪の捕虜、「罪の奴隷」からの解放をもたらすと。
ⅱ 18節f 「盲人には目の開かれることを告げるため」。
主は文字通り、盲人の目を開かれるという奇蹟を行われた。しかし究極の意味は、霊的盲目の開眼である。
ⅲ 18節g 「しいたげられている人々を自由にし」。
地上生涯において理不尽だと思われる境遇によって「霊的に打ちのめされている人」のこと。困難な生活環境は、霊的にも影響を与えるが、その直中で勝利させるお方。
※ しかし、これら故の主への驚異的感動は ※ 22節b 「この人は・・・」との侮蔑的処遇に変わる。こうした反応こそ、主の今後の奉仕の象徴的場面だったと見て学びを進めたい、と。
今朝は、イザヤ書を朗読して、21節 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と仰る主を、22節 「みなイエスをほめ( ※ 証言する、確認する )、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」郷里ナザレの人々が、懐疑を抱き ※ 22節 「この人は、ヨセフの子ではないか。」と言い出し、主を侮辱する態度に出た点に注目したい。
このことは、主が公生涯に入られた初めての経験である。
彼らは一体、何が言いたかったのか ?
主の語るところには感動し、確かに救い主として認めざるを得なくされて称賛に値する品位・権威を感じた。それは、31、32節に出て来るカぺナウムの人々が感じたものと同様。
にも拘らず、何故彼らは、急変したのか ?
22節の言葉の先には、28、29節 「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」という、恐るべき事件があるのだ。この恐ろしさは、主に感動し、主を称賛した上で、殺意を抱き、殺害しようと怒り狂う事実にある。
果たして ※ 22節の段階で、彼らは「主を丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそう」と考えていただろうか ?
主は人の心を知るお方( ヨハネの福音書 2章24、25節 )。23節 「きっとあなたがたは、『 医者よ。自分を直せ。 』 というたとえを引いて、カぺナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言う・・・」との主の一言で最高潮に達し、28節 「これらのことを聞くと・・・怒り」となると。
主は、郷里の人々を扱われたのだ。
22節の、「この人は、ヨセフの子ではないか」と呟かせるその心の根にあるもの、心の奥の闇に光を当てられた。
この呟きは、ふと出た言葉。人間的には聞き流せるものかも知れない。彼らが、主に懐疑を抱いたことを当然だと考えれば、聞き流せる言葉。彼らは当たり前のように躓( つまず )いた。
マタイの福音書では、「 『 この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。・・・すると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。 』 こうして、彼らはイエスにつまずいた。13章54~57節」と。しかし「どこから」が明らかにされたにも拘らず、唯、パウロが「人間的な標準でキリストを知っていた・・・。 コリント人への手紙 第二 5章16節」と言っている 《 肉の目 》 が受入れさせない、頑( かたく )なさが障害となった。
しかし主は、聞き逃さずに直ちにその呟きを問題視された。
何故なら、彼らのその言葉は、主を殺害しようと謀らせる罪の恐るべき性質から出ていると知っておられたから。マタイの福音書 15章18~20節 「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と。
主が用いられた ※ 4章24~27節の言葉が、彼らの正体を露わにした。異邦人を神が用いられた旧約の出来事を引き合いに出して、昔も今も変わらず、預言者への扱いは同様だと触れ、同時に異邦人には神の顧みがあるとの重荷の吐露をなされた。
a. 25、26節 ⇒ 預言者エリヤの時代でのこと。
b. 27節 ⇒ エリシャの時でのこと。
何れも共通的なことは、25c、26節 「イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされた」、27節 「イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」と、イスラエル人が憎む異邦人を神の働きに起用されたという事実である。
彼らの言い分は、イエスとは自分たちと同じで、特別な家柄でもなく、自分たちを差し置いて、何処に取り柄があるというのか ? 何処に救い主となる素養があるというのか ? ・・・だった。その感情を、異邦人にも向けたのだ。
何という嫌悪すべき優越感に浸る自己顕示欲がそこに !!
自分以外の者が祝福されることに我慢できない !! のだ。
※ 30節 「しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた」とあるのは、主が如何に、肉なる性質を嫌悪しておられるかの顕著な証である。箴言には、「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手・・・。 6章16~19節」とある。私たちは、「行ってしまわれた」主の後ろ姿に、何を見るだろう ? 何という厳格な態度 !! 主の忌み嫌われる 《 肉なる性質 》 を内に見出させられたならば、直ちに嫌悪し、十字架の血による清めに与り続けたい。
この記事へのコメント