聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 15


ルカの福音書4章14節~30節

先週は 《 三位一体の神による奉仕の開始が公的に告げられた 》 主の受洗直後、悪魔の試みに遭遇された記事に注目した。

ⅰ 悪魔の試みは、「聖霊に満ち」ておられる主に対して為され、又、「御霊に導かれて」のことであったと。
即ち、聖霊の主導の下でのこと。それは主が、14節 「御霊の力を帯びて」開始されるご奉仕に備える為にである。
悪魔は、聖霊の主導権によって許された誘惑の機会を “ これ幸い ” として、主を罪に陥れる機会にしようと、13節 「誘惑の手を尽くした」のだ。

 《 具体的に、どのような ? 》
a. 3節で、主が人の子となる為に棄てられた神たる特権を、自らの欲望を満たす為に利用させようとしたこと。
b. 5、6節は、妥協による栄華への誘い。復活によって確実となる再臨によって、万物は主の御手に収められる。サタンはこの事実を知って、十字架の死を避けさせ、悪魔に妥協して、自らの物にしたらどうかと提案した。
c. 9~11節で、救い主出現を待望するユダヤ人を一瞬にして驚かせて人気を博させ、今後の働きを有利にしては ? と。

ⅱ 何と幸いなことでしょう !! 「聖霊に満ちたイエス」は、悪魔の試みに屈することなく、悉( ことごと )く勝利されたこと。
悪魔の試みに対してその都度その都度、聖書のおことばで、「イエスは答えられた。4、8、12節」と、悪魔の誘いに決然と応じられた。先に触れたが、その時、14節 「御霊の力を帯びて( 聖霊に満たされて )」の奉仕に備えられている !!

※ へブル人への手紙 4章15、16節 「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の聖句は、私たちにおいて現実的であると感謝しつつ、聖霊のこの招きに応じたい、と。


今朝は、荒野における試みに勝利された後、14節 「御霊の力を帯びて」ご奉仕を開始された主に注目したい。
その始まりは、ガリラヤ地方全域で、14節b 「評判が回り一帯に、くまなく広まった」とあり、15節では「彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた【詳訳: 承認、尊敬、賞賛を受けられた】」とあるように、極めて好意的に迎えられ、前途は明るく輝かしくさえあるように感じられる。
その後の郷里ナザレでのこと、主の朗読を聴いた人々の反応でも又、22節 「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」とある。
それは、21節 「イエスは人々にこう言って話し始められた。『 きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。 』 」との宣言を聞く前から、朗読される主に、未だ見たことのない品位・権威に圧倒されていたからだ。
そして、「話し始められた」権威ある言葉に驚嘆 !!
何という厳粛な瞬間。主に手渡された巻物は、イザヤ書だった。主はこのイザヤ書から、ご自身について語られている箇所を読まれ、20節a 「・・・書を巻き、係りの者に渡してすわられた」瞬間、一斉に、20節b 「会堂にいるみなの目がイエスに注がれた」、その時に発せられた言葉 !!
救い主出現は、モーセの書の記録から2000年の歳月が流れていたが、それまでの待望期間の長い長い沈黙を破って発せられた主のお言葉。朗読を聞き、「きょう・・・実現しました」と聞いた会衆皆が、イエスに釘付けにされた光景から、身震いする程の畏れに見舞われた感情が伝わるではないか。

実に主は、21節 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と、額面通り信じられ、畏れられるべきお方なのだ。
18節 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた」お方。
主が公生涯に入られる直前に受洗された時、聖霊の注ぎと共に、天からの「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」の声が掛けられたあの光景に言及している。
ここで敢えて「貧しい人々に」とあるのは、主が如何に「貧しい人々」に関心を寄せておられるかの重荷の吐露である。
と同時に、貧しい人々への世の蔑( さげす )みを戒め、彼らこそ祝福されるべき人々と示すことによって、富めることをもって高ぶっている者を戒め、謙ることへのメッセージが込められている。

聖父に遣わされた目的、主が伝える福音とは ?

① 18節e 「捕らわれ人には赦免を」。

この「捕らわれ人」とは、第一義的には【戦争の捕虜とされている人】のことであるが、主は正に罪の捕虜、「罪の奴隷」を意味して語られた。ヨハネの福音書 8章31~34節のことで、罪からの解放を与えるためである。ローマ人への手紙 6章6、16~23節 「※ 22、23 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と。

② 18節f 「盲人には目の開かれることを告げるため」。

主は文字通り、盲人の目を開かれるという奇蹟を行われた。しかし究極の意味は、霊的盲目の開眼である。
ヨハネの福音書 9章39~41節 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」とある。自分は見えていると豪語する者が、実は、見えてはいない、盲目だったということに気付くためであると。何について盲目かというと、自らの罪人たる正体に無知、という盲目をである。

③ 18節g 「しいたげられている人々を自由にし」。

詳訳 「不幸によって踏みつけられ、痛めつけられ、押しつぶされ、打ちひしがれている者たちを解き放ち」とある。
ここでは、地上生涯において理不尽だと思われる境遇が意味されている。日常お互いが経験し、又見聞きさせられている現実的な困難な状況である。最後の「打ちひしがれている」とは、それらによって「霊的に打ちのめされている人」のこと。確かに生活環境から、人は霊的に影響を受ける。それらを摂理として受け止め、それらの直中にありながら勝利する恵みを与えるお方なのだ。ローマ人への手紙 8章35~37節 「私たちは、私たちを愛してくださった方によって・・・圧倒的な勝利者となるのです」。
これらを、19節 「主の恵みの年を告げ知らせるために」と締め括っておられるのは、これらが 《 神の好意としての宣言 》 だからである。

※ しかし主への驚異的感動は、何と、22節b 「この人は・・・」との侮蔑的処遇に変わる。こうした反応こそ、主の今後の奉仕の象徴的場面だったと見て、学びを進めたい。

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