ルカの福音書4章1節~15節
先週は 《 主の受洗の意義について 》 3章21節 「民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスも・・・」と、バプテスマを受けた「民衆」と同じようにと言っているところから学んだ。
これらの民衆は、自らの罪を認め、現状からの救いを求めてヨハネに詰め掛けた人々。しかし主は、その群衆と同じ筈がない。22節の主への天からの聖声がそれを証している。
へブル人への手紙5章7~10節。主は神であられるのに、「人として」一定期間地上で誘惑に遭遇されながらも、7節 「その敬虔のゆえに」との姿勢を以って完全なご生涯を送って来られた。
主は、群衆と同様な罪人では有り得なかったが、罪を告白した群衆たちのその罪を、ご自身が引き受け、「私たちの代わりに罪と」なって下さった、この一事の為にである( コリント人への手紙 第二 5章20節 )。
R・アールは、「キリストの受洗は十字架への序曲であった」と言っている。3章23節では、 《 主が公生涯に入られた 》 ことを伝えているが、実に、十字架への新しい節目としての第一歩の始まりが告げられたのだ。
天から告げられる聖父の声は、後、主のご生涯において要となる場面で、二度掛けられている ⇒ 9章35節、ヨハネの福音書12章28~30節。聖父との交わりは日々のこと。従ってこの声は、「わたしのためにではなくて、あなたがたのために」である。
バプテスマのヨハネも又、この時のことを受けて「証言している」と。
※ 主のこの受洗は、三位一体の神 《 聖父の声・鳩のような形で聖霊 》 が、御子と共に贖いの大事業の為、十字架への道を踏み出された出来事として厳粛に覚えたい、と。
今朝は 《 三位の神による奉仕の開始が公的に告げられた 》 主の受洗直後、悪魔の試みに遭遇された4章の記事に注目したい。
① 悪魔の試みは、「聖霊に満ち」ておられる主に対して為され、又、「御霊に導かれて」であったこと。
並行記事を見ると、マタイの福音書 4章1節 「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」、マルコの福音書 1章12節 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」とあり、ルカでは、1、2節 「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」とある。
聖霊に満ちているということは、聖霊に支配されている、聖霊の導きのもとに身を委ねているということを意味するので、聖霊に身を明け渡しておられた主は、聖霊の意図されるところに従って荒野におられたということなのだ。1節の「御霊に導かれて」とは、詳訳で【道案内されて】とあり、聖霊が主導権・明確な目的を持っておられてのこと。
聖霊の 《 主を試みるがままにされた 》 その意図とは ?
14節 「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とある「御霊の力を帯び」て、開始されるご奉仕に備える為にである。その証拠として、マルコによる「そしてすぐ」と、受洗後直ちに「追いやられた」ことで明白。
この「試みに会われた」とは、試験に晒( さら )すの意。即ち、主がどのようなお方であるのかを更に、聖父及び聖霊がより吟味して知ろうとされたのだ。
聖霊は主がこの「悪魔の試みを受けるため」に、悪魔に主を誘惑させたという 《 主導権 》 を持っておられた。悪魔は、聖霊の主導権によって許された誘惑の機会を “ これ幸い ” として、主を罪に陥れる機会にしようと、13節 「誘惑の手を尽くした」のだ。誘惑は、神の子たちを際どいところに置くが、あくまでも主導権は聖霊にあると覚えたい。
13節 「誘惑の手を尽くした」とは ?
a. 2節 「空腹を覚えられた」時に試された。
3節 「そこで、悪魔はイエスに言った。『 あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。 』 」とは、肉体的欲望への訴えである。「あなたが神の子なら」とは、何という巧みさ。神の子の特権を、自らの欲望を満たす為に利用させようとした。欲望は、神が人に、生きるのに必要なものとして与えられた良き物であるが、正当な欲望を不当な手口で自分の物にする時、ヤコブの手紙 1章15節 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」という結果に。
b. 5~7節 「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『 この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。 』 」と、妥協による栄華へ。
主はサタンについて、「この世の支配者 ⇒ ヨハネの福音書 12章31節、14章30節、16章11節」と言っておられる。エペソ人への手紙 6章11~13節でも、「この暗やみの世界の支配者たち」と。
コリント人への手紙 第一 15章20~28節 ⇒ 主の再臨の時、この世はサタンの手から主に渡される。24節 「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし・・・」と。この復活によって確実となった再臨によって、万物は主の御手に収められる。サタンはこの事実を知りながら、十字架の死を通過せずに、悪魔に妥協して、自らの物にしたらどうかと提案したのだ。あくまでも、聖父の御心からの逸脱を謀り、安易な道を選択させようとの魂胆である。
c. 9~11節 「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂( いただき )に立たせて、こう言った。『 あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい・・・ 』 」と。
今日にでもと、救い主の出現を待望していたユダヤ人を驚かしてみてはどうかとの誘惑である。そうすれば、直ちに人気を博し、願っている働きを有利に導くと。
② 何と幸いなことでしょう !! 「聖霊に満ちたイエス」は、悪魔の試みに屈することなく、悉( ことごと )く勝利されたということ。
悪魔の試みに対して、その都度その都度、聖書のおことばで「イエスは答えられた。4、8、12節」と、悪魔の誘いに決然と応じられた。先に触れたが、その時、14節 「御霊の力を帯びて( 聖霊に満たされて )」の奉仕に備えられている !!
※ この出来事によって、へブル人への手紙 4章15、16節 「・・・おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の聖句は、私たちにおいて現実的であることを感謝して、聖霊によるこの招きに応じる者でありたい。
先週は 《 主の受洗の意義について 》 3章21節 「民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスも・・・」と、バプテスマを受けた「民衆」と同じようにと言っているところから学んだ。
これらの民衆は、自らの罪を認め、現状からの救いを求めてヨハネに詰め掛けた人々。しかし主は、その群衆と同じ筈がない。22節の主への天からの聖声がそれを証している。
へブル人への手紙5章7~10節。主は神であられるのに、「人として」一定期間地上で誘惑に遭遇されながらも、7節 「その敬虔のゆえに」との姿勢を以って完全なご生涯を送って来られた。
主は、群衆と同様な罪人では有り得なかったが、罪を告白した群衆たちのその罪を、ご自身が引き受け、「私たちの代わりに罪と」なって下さった、この一事の為にである( コリント人への手紙 第二 5章20節 )。
R・アールは、「キリストの受洗は十字架への序曲であった」と言っている。3章23節では、 《 主が公生涯に入られた 》 ことを伝えているが、実に、十字架への新しい節目としての第一歩の始まりが告げられたのだ。
天から告げられる聖父の声は、後、主のご生涯において要となる場面で、二度掛けられている ⇒ 9章35節、ヨハネの福音書12章28~30節。聖父との交わりは日々のこと。従ってこの声は、「わたしのためにではなくて、あなたがたのために」である。
バプテスマのヨハネも又、この時のことを受けて「証言している」と。
※ 主のこの受洗は、三位一体の神 《 聖父の声・鳩のような形で聖霊 》 が、御子と共に贖いの大事業の為、十字架への道を踏み出された出来事として厳粛に覚えたい、と。
今朝は 《 三位の神による奉仕の開始が公的に告げられた 》 主の受洗直後、悪魔の試みに遭遇された4章の記事に注目したい。
① 悪魔の試みは、「聖霊に満ち」ておられる主に対して為され、又、「御霊に導かれて」であったこと。
並行記事を見ると、マタイの福音書 4章1節 「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」、マルコの福音書 1章12節 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた」とあり、ルカでは、1、2節 「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」とある。
聖霊に満ちているということは、聖霊に支配されている、聖霊の導きのもとに身を委ねているということを意味するので、聖霊に身を明け渡しておられた主は、聖霊の意図されるところに従って荒野におられたということなのだ。1節の「御霊に導かれて」とは、詳訳で【道案内されて】とあり、聖霊が主導権・明確な目的を持っておられてのこと。
聖霊の 《 主を試みるがままにされた 》 その意図とは ?
14節 「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とある「御霊の力を帯び」て、開始されるご奉仕に備える為にである。その証拠として、マルコによる「そしてすぐ」と、受洗後直ちに「追いやられた」ことで明白。
この「試みに会われた」とは、試験に晒( さら )すの意。即ち、主がどのようなお方であるのかを更に、聖父及び聖霊がより吟味して知ろうとされたのだ。
聖霊は主がこの「悪魔の試みを受けるため」に、悪魔に主を誘惑させたという 《 主導権 》 を持っておられた。悪魔は、聖霊の主導権によって許された誘惑の機会を “ これ幸い ” として、主を罪に陥れる機会にしようと、13節 「誘惑の手を尽くした」のだ。誘惑は、神の子たちを際どいところに置くが、あくまでも主導権は聖霊にあると覚えたい。
13節 「誘惑の手を尽くした」とは ?
a. 2節 「空腹を覚えられた」時に試された。
3節 「そこで、悪魔はイエスに言った。『 あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。 』 」とは、肉体的欲望への訴えである。「あなたが神の子なら」とは、何という巧みさ。神の子の特権を、自らの欲望を満たす為に利用させようとした。欲望は、神が人に、生きるのに必要なものとして与えられた良き物であるが、正当な欲望を不当な手口で自分の物にする時、ヤコブの手紙 1章15節 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」という結果に。
b. 5~7節 「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『 この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。 』 」と、妥協による栄華へ。
主はサタンについて、「この世の支配者 ⇒ ヨハネの福音書 12章31節、14章30節、16章11節」と言っておられる。エペソ人への手紙 6章11~13節でも、「この暗やみの世界の支配者たち」と。
コリント人への手紙 第一 15章20~28節 ⇒ 主の再臨の時、この世はサタンの手から主に渡される。24節 「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし・・・」と。この復活によって確実となった再臨によって、万物は主の御手に収められる。サタンはこの事実を知りながら、十字架の死を通過せずに、悪魔に妥協して、自らの物にしたらどうかと提案したのだ。あくまでも、聖父の御心からの逸脱を謀り、安易な道を選択させようとの魂胆である。
c. 9~11節 「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂( いただき )に立たせて、こう言った。『 あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい・・・ 』 」と。
今日にでもと、救い主の出現を待望していたユダヤ人を驚かしてみてはどうかとの誘惑である。そうすれば、直ちに人気を博し、願っている働きを有利に導くと。
② 何と幸いなことでしょう !! 「聖霊に満ちたイエス」は、悪魔の試みに屈することなく、悉( ことごと )く勝利されたということ。
悪魔の試みに対して、その都度その都度、聖書のおことばで「イエスは答えられた。4、8、12節」と、悪魔の誘いに決然と応じられた。先に触れたが、その時、14節 「御霊の力を帯びて( 聖霊に満たされて )」の奉仕に備えられている !!
※ この出来事によって、へブル人への手紙 4章15、16節 「・・・おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の聖句は、私たちにおいて現実的であることを感謝して、聖霊によるこの招きに応じる者でありたい。
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