聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 13


ルカの福音書3章21節、22節

先週は、神のことばが荒野のヨハネに下って後、直ちに着手することになった 《 ヨハネの奉仕 》 に注目した。
ヨハネは、ナザレに待機中の主が、「聖霊と火とのバプテスマを授ける」べく、公に姿を現すや否や、直ちにご奉仕が出来るようにとの準備に生涯を捧げた。彼の奉仕は・・・

ⅰ 10、12、14節 「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう」という霊的渇きを生じさせた。
正にこの事実は、あの聖霊に満たされたペテロが説教で、人々をして叫ばせたのに同様の現象 ⇒ 使徒の働き 2章37節。
ヨハネは、相手が誰であろうと【一般の民衆のみならず、自己満足に浸っているユダヤ教の宗教家から国主まで】彼らの心の闇を照らし、罪の事実に気付かせ、目覚めさせ、そこからの救いを求めさせた。

ⅱ 11、13、14節b'の勧め、即ち、霊的渇きを抱いた人々に、示された罪深い行為からの実際的方向転換( 自己中心的生き方から、神のご意志に従う生き方への転換 )を迫り指導した。
8節では、如何にも罪とは無縁の生活を送っているかのように装い、実は、罪を罪とも思わず、ひたすら目に見えるところの見栄え良さにのみ関心を寄せている偽善者には、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と、欺かれずに命じている。

※ この霊的渇きと方向転換の徹底こそが、「聖霊と火とのバプテスマ」の経験に備えさせ、聖霊の満たしに導く。しかし11章24~26節から、悔い改めの徹底によって空になったそこに、聖霊によって生きることがない時、再度サタンに入り込まれることには警戒したい、と。


今朝の聖句は 《 主の受洗 》 の記事であるが、それぞれ補う形で記録している四つの福音書を一覧表にしたプリントを参照しつつ 《 主の受洗の意義について 》 考えたい。
マタイの福音書には、他の福音書にはない、主とヨハネとのやり取りが出て来る。受洗を志願して出て来られた主を目の前にしたヨハネの戸惑いは、どのようなものだっただろうか !!
ルカの福音書 3章16節c 「私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません」と言っていたヨハネ。それでも、主が「今はそうさせてもらいたい」と言われた時( マタ 3・15 )、それ以上抵抗しなかったヨハネに、謙遜とは ? を学んで来たのではないか !!
ヨハネは、主の説得によって、主の申し出を謙虚に受け止め、主に洗礼を授けたのだ。

主の受洗の意義とは ?

ルカの福音書 3章21節 「イエスもバプテスマをお受けになり」とある、この「イエスも」にある。
先のバプテスマを受けた「群衆」と同じように、である。
これらの民衆は先週学んだように、自ら犯した罪に光が当てられ、「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう」と口々に現状からの救いを求めてヨハネに詰め掛けた人々。
主は、その群衆と同じ筈がない。主には天からの聖声が !!
主への天からの聖父による、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」との聖声は、ベツレヘムで産声を上げられてからのナザレにおける30年間のご生涯が、聖父の御心に叶っていたとの宣言である。

へブル人への手紙 5章7~10節をしっかり味わっておきたい。
主は、神ご自身であられるのに、「人として」一定の期間を地上で過ごされた。即ち、罪人と同じ位置にご自身を置かれた。その為に誘惑に遭遇された。しかし、試みに遭遇されながらも、同 4章15節 「罪は犯されませんでした」。
どのようにして、罪を犯さずに過ごされたのか ?
その鍵が、この5章7節 「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」にある。
如何なることがあっても、聖父に従いたいとのご意志の明確さ。8節 「多くの苦しみによって従順を学び」と、従うことには苦しみが伴うことを身をもって経験されたのだ。
主は、人としての弱さを身に帯びている自らを知り、その弱さは聖父の御心から逸れさせる機会ともなり得ると知り、しかし決して逸れてはならないとする決意を持たれた。逸れることへの危機感を覚えては、ゲッセマネの祈りに代表される血の汗を滴らせながらの切なる祈りを捧げて、勝ち進まれた。
弱さを自覚させられている私たちが、弱いままなのは、主の抱く「その敬虔さのゆえ」がないことに原因がある。即ち、何としても聖父には従いたいとする愛の欠如。だから、主のように「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」ることがない。今のこの現状に甘んじているのは何故 ? この現状のままであってはならないとする、聖父への愛を欠く。自暴自棄になり、自らが神のものとの意識がない。愛の欠如を知って、悲しみ泣いているだろうか ? この涙が必要 !!

主は、聖父を愛するが故に完全なご生涯を送って来られた。
最初の質問に戻りたい。
主は、群衆と同様な罪人ではないのだ。それでは何故 ? 「イエスもバプテスマをお受けに」なられたのか ?
この事実こそ、ヨハネの福音書 1章29節 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と、ヨハネがこの世に初めて主を紹介した時の言葉の意味するところだからである。
ヨルダン川で、自分たちの罪を暴かれた群衆たちは、ヨハネから生涯の方向転換を迫られた時、実際的な罪の赦しを求めて告白した。主は、告白された群衆たちのその罪を、ご自身で引き受けられるのである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。 コリント人への手紙 第二 5章21節」この一事の為に。
R・アールは、「キリストの受洗は十字架への序曲であった」と言っている。3章23節では、 《 主が公生涯に入られた 》 とあるが、実に、十字架への新しい節目としての第一歩の始まりが告げられたのだ。
天から告げられる聖父の声は、後、主のご生涯において要となる場面で、二度掛けられている ⇒ 9章35節、ヨハネの福音書 12章28~30節。聖父との交わりは日々のこと。従ってこの声は、「わたしのためにではなくて、あなたがたのために」である。
バプテスマのヨハネも又、この時のことを受けて「証言しているのです」と( ヨハ 1・34 )。

※主のこの受洗は、三位一体の神 《 聖父の声・鳩のような形で聖霊 》 が、御子と共に贖いの大事業の為、十字架への道を踏み出された出来事として厳粛に覚えたい。

この記事へのコメント