聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 12


ルカの福音書3章3節~20節

先週は、主が開始されるご奉仕に備えた、先駆者ヨハネに注目した。
1節と2節に名を連ねている人々が皆、主を死に追い遣った群れであることを確認しながら、主に襲い掛かろうと、手ぐすね引いて待ち構えているところへ、2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」に学んで襟を正した。

ⅰ 「神のことばが、荒野で ・・・下った」ことについて。
ここに、霊的営みに関する重要な示唆がある。マタイの福音書 3章4節では、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野密であった」と、極めて服装も食べ物も、粗末で単純なもの。これを、極端な世捨て人と見るべきではなく、彼が 《 神の指示をどれだけ切望し、余計な事柄に思いを分散させずに、神を待ち望む器 》 だったか、この理解である。呑気に構えては居られない事情があったから。  
ヨハネは幼い頃から、父ザカリヤに啓示された ※ 1章15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」との召命について 《 厳格な指導と教育 》 を受けて来たのだから。
旧約時代からの預言「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」とは 《 何と畏れ多い務め !! 》 との自覚が、世の喧騒から身を立ち退かせ、神からのご指示への注意深さの表れとなっている。

ⅱ 3節 「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」と、直ちに働きを開始した。

※ 私たちに、この「荒野」があるだろうか ? と自問自答しつつ、自らに与えられた主の召命に生きる者として光を、と。


今朝は、神のことばが荒野のヨハネに下って後、3章3節 「そこでヨハネは」と、イザヤ書で預言されていた通りに着手することになった 《 ヨハネの奉仕 》 に注目致します。
ヨハネの使命は、1章17節 「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」、1章76、77節 「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与え」、3章3節 「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」、4節 「主の道を用意し・・・」にあった。
即ちヨハネは 《 もう既に、ナザレでご自身の働きに着手しようと待機しておられる主が、公に姿を現されるや否や、直ちにご奉仕に携わることが出来るようにと準備の為に 》 生涯を捧げたのだ。
ヨハネは自らの生涯について、「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。 ヨハネの福音書 3章29、30節」と告白している。
さて、主の奉仕とは、6節 「あらゆる人が、神の救いを見るようになる」こと。即ち、その「あらゆる人」が16節 「聖霊と火とのバプテスマ」の経験に与ることにある。
ですからヨハネは、すべての人々を 《 この経験に与るよう備えさせる為に 》 労したのである。ということは、すべての人の救いの究極は、この経験に与ることである。実に、「・・・その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 ガラテヤ人への手紙 3章13、14節」と、伝えているところに一致する。

ヨハネの奉仕は、どのようにして、人々をこの経験に備えさせたのかに学んで、私たちにおいても「聖霊と火とのバプテスマ」の経験、即ち聖化の経験に与るのに、どのように扱われて来たかを再確認したい。
6節 「こうして」が鍵 !! それは、5節の「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる」、「こうして・・・救いを見る」とあるから。

その為の具体的な働きとは・・・

① 10、12、14節 「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう」という霊的渇きを生じさせた。

霊的渇きは、いつ来るのか ? 言うまでもなく、ヨハネが「荒野で叫ぶ者の声」として、神のことばを伝えた時( 4節 )、聴く人々の心に光が当てられ、彼らはこのままの生活で良いのだろうかとの不安感、恐怖心に襲われた !! ここから渇きが !!
正にこの事実は、あの聖霊に満たされたペテロが説教で、人々をして叫ばせたのに同様の現象 ⇒ 使徒の働き 2章37節。
ヨハネの、16節 「水で・・・バプテスマを」とあるのは、悔い改めのバプテスマであり、ここで悔い改めを迫るメッセージを伝えた。7節の「群衆」とは、マタイの福音書 3章7節 「パリサイ人やサドカイ人」のこと。彼らは、「われわれの先祖はアブラハムだ。8節」と言っては、親の七光りに依存するばかり。決して正直に自らの内面を探られることなく、律法を守っていることをもって良しと自負し、律法を守らない人々を罪人と呼んで軽蔑し、それで神の前に受入れられているとする人々。
しかしヨハネは、彼らを徹底的に扱い、「まむしのすえ」とも呼び、暗闇を照らした。又彼ら同様、19節 「国主ヘロデ」に対しても、「その兄弟の妻ヘロデヤのことについて」の不義と、「悪事のすべて」を明るみにした。

② 霊的渇きを抱いた人々に、実際的な方向転換を迫った。

11節 「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」、13節 「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません」、14節b’ 「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」と、示された罪深い行為への実際的方向転換( 自己中心的な生き方から、神のご意志に従う生き方への転換 )の指導。
8節では、如何にも罪とは無縁の生活を送っているかのように装い、実は、罪を罪とも思わず、ひたすら人目を気にして、見栄えの良さにのみ関心を寄せている偽善者たちには、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と、欺かれずに命じている。

※ この霊的渇きと方向転換の徹底こそが、「聖霊と火とのバプテスマ」の経験に備えさせる。即ち聖霊の満たしである。
11章24~26節 「※ 25、26 家は掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで・・・」とは警戒である。
片付いているとは、悔い改めの徹底。聖霊によって生きることがない時、空になったそこへ再度サタンに入り込まれる隙となる。「御霊に導かれて、進もうではありませんか。 ガラテヤ人への手紙 5章25節」に留意を。

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