ルカの福音書3章1節~3節
先週は、『 ルカの福音書 』 にのみある、主の幼少時代の貴重な記録から、40節と52節とに言及されている 《 幼子イエスの健全な成長ぶり 》 の鍵を、その聖句の間に位置する ※ 41~51節 《 神に選ばれた両親との関係 》 に見て考えさせて頂いた。
週報に連載の 『 十戒 』 では、この記事から “ 幼少の頃、少年イエスは、母マリヤと、神の前に正しい人である父親としてのヨセフの監督下に置かれていた。人間の愛と監督のもとで成長し、知恵が加わり、背丈も伸びて、神と人から愛された ” と学んでいた。家庭生活の一コマから垣間見えるのは・・・
ⅰ 48節 「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです」に、主の父母への従順を見る。
『 十戒 』 の著者キャンベル・モルガンによると、 “ イエスが母の直接の感化のもとから外へは殆んど出なかったことを、証明してはいないか ” と言っている。
ⅱ 49節 「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」に見る主の母への信頼。
母マリヤが生活面だけではなく、聖父との関係についても十分知っている理解者であるとの信頼である。しかし、そこまでの理解に至っていない両親の現実に戸惑われはしたものの、軽蔑せずに聖父の時に委ね、51節 ※ 「・・・両親に仕えられた」。この期間の従順は、成人した時、両親への尊敬に移行。
※ 全ての家族関係が、このような愛の関係で結ばれているなら幸い。生来の肉の性質はこの関係に支障をきたしている。両親は尊敬されず、子供は両親の監督下に置かれることに抵抗。互いの関係に、主とご家族の関係から光を受けて謙りたい、と。
今朝は、主が開始されるご奉仕に備えた、先駆者ヨハネの働きに注目するが、そのヨハネの登場に合わせて、3章1、2節に名を連ねられている人々にも注意を払っておきたい。
一般的に1節、2節の記録について、 “ ルカは歴史家としての務めを担っている ” と説明されているが、ルカはこの背景を記録するのに、より現実的な事実を伝えようとしている、或いは、聖霊の意図がそれ以上のことにあるのでは ?
と言うのは、これらの人物こそ、人々に仕えられた主を、十字架刑に処した人々だったからである。
私たちは、バプテスマのヨハネの登場によって、主のご奉仕がいよいよ始まろうとしている頃合いと見るが、同時に、主に襲い掛かろうと、手ぐすね引いて待ち構えている不気味な群れの中に、突入しようとしておられると見て、襟を正したい。
1節から、「ポンテオ・ピラト」とは言うまでもなく、主の裁判に立ち会った総督。「ヘロデ」とは、主を殺害しようとしたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスで、19、20節 ※ 悪事を咎めたヨハネを捕らえ、遂には殺害した人物。後、23章8~12節 「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。・・・ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである」とある。
更に ※ 2節 「アンナスとカヤパ」も又、主のゲッセマネの園での祈りの場に居合わせていた。マタイの福音書 26章57節 「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った」、62~66節 「そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。『 何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。 』 ・・・」と詰問して後、「死刑に当たる」として、ピラトに引き渡している。
その上で、2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」とは、何という神の主権を見ることか !!
詩篇 2篇を、この節の解説と読めないだろうか。特に、3節 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう【別訳: さあ、我々は自由になり、神などいらないのだ】」と、罪の実態がこれ。神の律法に対する反逆。神の御心の代わりに、生来の肉の欲するところに従う事をもって自由とする。この中に、主は迎えられることになるのである。
さて今朝は、この主を迎えるに際して、2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」に注目して Message としたい。
① 「神のことばが、荒野で・・・下った」ことについて。
ここに、霊的営みに関する重要な示唆がある。マタイの福音書 3章4節では、「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野密であった」とある。極めて服装も食べ物も、粗末で単純なもの。
極端な世捨て人と見て取るよりも、ヨハネが 《 神の指示をどれだけ切望していた器、余計な事柄に思いを分散させずに、神を待ち望む姿勢を取る器 》 であったかと見るべき。
何故ならば、呑気に構えては居られない事情があった。
ヨハネは幼い頃から、父ザカリヤに啓示された ※ 1章15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」との召命について 《 厳格な指導と教育 》 を受けて来たのだから。
旧約時代から待望されていた「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」とは 《 何と畏れ多い務め 》 !! この自覚が、世の喧騒から身を立ち退かせたのであり、それは神からのご指示を聞き逃さないようにとの神への畏敬の念、注意深さの表われである。
ローマ人への手紙 12章2節 詳訳 「この時代に同調( その外面的な、皮相的な風習に追従し順応 )してはいけません。もしろ、神の善なる、受入れるべき、完全なご意志が何であるのかを自分で弁別出来るように、自分の心を全体的に刷新することによって( 心の新しい理想と新しい態度をもって )変化させられなさい」に準じる心の態度である。
② 3節 「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」と、直ちに働きを開始した。
4節 「そのことは・・・預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおり」に導かれている !!
※ 私たちに、この「荒野」があるだろうか ? と自問自答しつつ、自らに与えられた主の召命に生きる者として光を !!
先週は、『 ルカの福音書 』 にのみある、主の幼少時代の貴重な記録から、40節と52節とに言及されている 《 幼子イエスの健全な成長ぶり 》 の鍵を、その聖句の間に位置する ※ 41~51節 《 神に選ばれた両親との関係 》 に見て考えさせて頂いた。
週報に連載の 『 十戒 』 では、この記事から “ 幼少の頃、少年イエスは、母マリヤと、神の前に正しい人である父親としてのヨセフの監督下に置かれていた。人間の愛と監督のもとで成長し、知恵が加わり、背丈も伸びて、神と人から愛された ” と学んでいた。家庭生活の一コマから垣間見えるのは・・・
ⅰ 48節 「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです」に、主の父母への従順を見る。
『 十戒 』 の著者キャンベル・モルガンによると、 “ イエスが母の直接の感化のもとから外へは殆んど出なかったことを、証明してはいないか ” と言っている。
ⅱ 49節 「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」に見る主の母への信頼。
母マリヤが生活面だけではなく、聖父との関係についても十分知っている理解者であるとの信頼である。しかし、そこまでの理解に至っていない両親の現実に戸惑われはしたものの、軽蔑せずに聖父の時に委ね、51節 ※ 「・・・両親に仕えられた」。この期間の従順は、成人した時、両親への尊敬に移行。
※ 全ての家族関係が、このような愛の関係で結ばれているなら幸い。生来の肉の性質はこの関係に支障をきたしている。両親は尊敬されず、子供は両親の監督下に置かれることに抵抗。互いの関係に、主とご家族の関係から光を受けて謙りたい、と。
今朝は、主が開始されるご奉仕に備えた、先駆者ヨハネの働きに注目するが、そのヨハネの登場に合わせて、3章1、2節に名を連ねられている人々にも注意を払っておきたい。
一般的に1節、2節の記録について、 “ ルカは歴史家としての務めを担っている ” と説明されているが、ルカはこの背景を記録するのに、より現実的な事実を伝えようとしている、或いは、聖霊の意図がそれ以上のことにあるのでは ?
と言うのは、これらの人物こそ、人々に仕えられた主を、十字架刑に処した人々だったからである。
私たちは、バプテスマのヨハネの登場によって、主のご奉仕がいよいよ始まろうとしている頃合いと見るが、同時に、主に襲い掛かろうと、手ぐすね引いて待ち構えている不気味な群れの中に、突入しようとしておられると見て、襟を正したい。
1節から、「ポンテオ・ピラト」とは言うまでもなく、主の裁判に立ち会った総督。「ヘロデ」とは、主を殺害しようとしたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンテパスで、19、20節 ※ 悪事を咎めたヨハネを捕らえ、遂には殺害した人物。後、23章8~12節 「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。・・・ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである」とある。
更に ※ 2節 「アンナスとカヤパ」も又、主のゲッセマネの園での祈りの場に居合わせていた。マタイの福音書 26章57節 「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った」、62~66節 「そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。『 何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。 』 ・・・」と詰問して後、「死刑に当たる」として、ピラトに引き渡している。
その上で、2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」とは、何という神の主権を見ることか !!
詩篇 2篇を、この節の解説と読めないだろうか。特に、3節 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう【別訳: さあ、我々は自由になり、神などいらないのだ】」と、罪の実態がこれ。神の律法に対する反逆。神の御心の代わりに、生来の肉の欲するところに従う事をもって自由とする。この中に、主は迎えられることになるのである。
さて今朝は、この主を迎えるに際して、2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」に注目して Message としたい。
① 「神のことばが、荒野で・・・下った」ことについて。
ここに、霊的営みに関する重要な示唆がある。マタイの福音書 3章4節では、「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野密であった」とある。極めて服装も食べ物も、粗末で単純なもの。
極端な世捨て人と見て取るよりも、ヨハネが 《 神の指示をどれだけ切望していた器、余計な事柄に思いを分散させずに、神を待ち望む姿勢を取る器 》 であったかと見るべき。
何故ならば、呑気に構えては居られない事情があった。
ヨハネは幼い頃から、父ザカリヤに啓示された ※ 1章15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」との召命について 《 厳格な指導と教育 》 を受けて来たのだから。
旧約時代から待望されていた「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」とは 《 何と畏れ多い務め 》 !! この自覚が、世の喧騒から身を立ち退かせたのであり、それは神からのご指示を聞き逃さないようにとの神への畏敬の念、注意深さの表われである。
ローマ人への手紙 12章2節 詳訳 「この時代に同調( その外面的な、皮相的な風習に追従し順応 )してはいけません。もしろ、神の善なる、受入れるべき、完全なご意志が何であるのかを自分で弁別出来るように、自分の心を全体的に刷新することによって( 心の新しい理想と新しい態度をもって )変化させられなさい」に準じる心の態度である。
② 3節 「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」と、直ちに働きを開始した。
4節 「そのことは・・・預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおり」に導かれている !!
※ 私たちに、この「荒野」があるだろうか ? と自問自答しつつ、自らに与えられた主の召命に生きる者として光を !!
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