聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 10


ルカの福音書2章40節~52節

2017年の元旦を聖日として迎えた礼拝では、シメオンによる預言 《 マリヤへの祝福の言葉 》 34節の聖句に注目した。一見、祝福の言葉とは到底思えない 《 幼子と母マリヤにとって過酷で厳しい現実がある 》 という預言だった。

ⅰ 幼子には、向き合うことになる人々との関係における扱いが。
悲しみの人、病を知る人としての受難の生涯の予告。

ⅱ 母マリヤには、幼子との関係における扱いが。
「剣があなたの心さえも刺し貫く」とは、十字架上の主の最期を見届ける日を指すのみならず、幼子が公的生涯において直面するその都度見聞きする時の経験でもある。
シメオンは実に、「祝福して言った」のだ。
あの受胎告知の時にも語られた、御使いからの ※ 1章28節 「おめでとう、恵まれた方」、同 30節 「あなたは神から恵みを受けたのです」を意味する言葉であるが、その母マリヤが、「剣があなたの心さえも刺し貫く」と言われたのだ。
幼子の存在は、すべての人の生来の肉を扱うので、人は自らの生き方に二者択一を迫られる( ガラテヤ人への手紙 5章16節~26節 )。肉を好む者は反発し、その肉からの解放を求める者には解放が与えられる。
マリヤの心も又【思いが露わにされて刺し貫かれる】とは ? 母親として生涯関わりを持たせて頂いたからこその厳しい扱いが。わが子の「わが神、わが神」と叫ぶ祈りを聞き、その苦悩が自らの呪いの為にでもあったと知って見る時の、予想だにしなかった情的な扱いである。 

※ わが子との関係を完全に断って、わが子を「わが主」と呼ぶ、そこまでの扱いをもって祝福とする信仰に与りたい、と。


今朝は、主の幼少時代の貴重な記録として唯一伝えられている記事から、健全な親子関係、特に母と子の関係について考えさせて頂きたい。
この 《 親子関係の 》 記事が、2章40節 「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった」の聖句と、52節の「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」の聖句との間に置かれていることは、意義深い。それは、乳飲み子イエスが 《 肉体的にも知的にも霊的にも 》 健全な成長を遂げ、「神と人とに愛された」、即ち、聖父の喜びとなり、社会的にも喜びの存在となって行ったということは、41~51節の出来事が物語っている親子関係の結実であるとの示唆となるから。
主は、私たち人間同様、乳飲み子から親のお世話に与ることなくして成長できない、人の子としての成長過程を通らなければならないお方であられた。
ピリピ人への手紙 2章6節 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」と語られている通りである。
実に、ルカの福音書 2章12節 「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」の聖句こそ、この聖句の見事な解説である。
『 ウェスレアン聖書注解 』 の解き明かしはこうである。
 “ 一瞬という時の中に捉えられた永遠者。洞穴の飼葉おけに限定された遍在者。揺りかごに伏し、ご自身の頭さえ、わらから起こすことも出来ない、頼りない嬰児という全能者
一言も喋ることのできない赤ん坊の中に閉じ込められた全知者。洞穴の馬小屋の飼葉おけを揺りかごとされる、天地を創造されたキリスト。何という謙遜な愛、神の知恵であろう。 
神は 《 冷たく、残酷で、罪深い、苦しみ悩む人類に近づこうとされた時 》 ベツレヘムの飼葉おけに嬰児を置かれたのだ。人間の心に届くには、罪なき幼子による道が一番の近道であった。無限の知恵によって、神はこのように計画された ” と。

従って、両親の手によって、「ますます知恵が進み、・・・神と人とに愛された」との成長を遂げ、やがての日に備えられたのだ。
その鍵が、40節と52節との間に置かれている ※ 41~51節 《 神に選ばれた両親との関係 》 であり、両親の許での幼子イエスの生活振り、両親と幼子の関係の如何にあったのだ。

週報裏面 『 十戒 』 連載( 2016.11.27 )でも取り上げられていた。
そこで、 “ ・・・幼少の頃、少年イエスは、母であるマリヤと、神の前に正しい人である父親としてのヨセフの監督下に置かれていた。イエスは、人間の愛と監督のもとで成長し、知恵が加わり、背丈も伸びて、神と人から愛された ” と、ルカの福音書の12歳の時の出来事を取り上げている。
そもそも、『 十戒 』 の第五戒「あなたの父と母を敬え」の解説の部分での学びでのこと。この戒めは、子供への戒めに留まるものではなく、子供から敬われるような父と母であるようにとの、両親への戒めでもあるとあった。そして、この戒めの模範とも言うべき出来事として、このルカの記事を取り上げていたのだ。参考にして考えたい。
家族のこのエルサレム行きは( 41、42節 )、成人男性に義務付けられていた三大祭りの一つ 《 過越の祭り 》 でのこと。42節 「イエスが十二歳になられたとき」の言及は、この年齢を迎えると受けるよう定められている 《 律法の子となる厳かな儀式 》 に臨む為。

その時に起った家庭生活の微笑ましい光景の一コマから。

① 48節 「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです」に、主の父母への従順を見る。

両親が宮でイエスを見つけた時に出た言葉は、イエスが居ないと知った時の衝撃が如何に強烈だったかを物語っている。先の 『 十戒 』 の著者キャンベル・モルガンによると、 “ イエスが母の直接の感化のもとから外へは殆んど出なかったことを、証明してはいないか ” と言っている。

② 49節 「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」に見る主の母への信頼。

母マリヤが、生活面だけではなく、わが子が、聖父との関係で生きていく上で備えられるべき霊的関係についても十分知ってくれている唯一の理解者であるとの信頼である。
イエスは、そこまでの理解に至っていない両親の現実に戸惑われはしたものの軽蔑することなく、聖父の時に委ねて、51節 「それからイエスは・・・」と、従順に従われた。この期間の従順は、成人した時、両親への尊敬に移行。

※ 全ての家族関係が、このような愛の関係で結ばれているなら幸い。生来の肉の性質はこの関係に支障をきたしている。両親は尊敬されず、子供は両親の監督下に置かれることに抵抗。互いの関係に、主とご家族の関係から光を受けて、謙りたい。

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