ルカの福音書2章22節~40節
昨年末最後の聖日は、クリスマス記念礼拝として、主のご降誕が、2章10節 詳訳 「すべての民に及ぶ大きな喜びの素晴らしい知らせ」であること、《 それは「すべての民に及ぶ」 ※ 11節 「救い主」としての誕生であるから 》 という福音に注目した。
ⅰ 「救い主」であるとは ?
21節 「幼子はイエスという名で呼ばれることになった」とある名前が、そのご降誕の目的を明確にしている。即ち、マタイの福音書 1章21節 「ご自分の民をその罪から救」うの意。
犯した罪の赦しから始まる 《 罪の力からの解放 》、即ち、罪をもたらす内的腐敗が清められることから来る自由。
ⅱ イエスが罪から救う「救い主」であるしるしは ?
12節 「布にくるまって飼葉おけに・・・」が象徴する貧しさこそ、しるしであると。実に、「十字架の死にまでも従われた」 《 不条理の貧しさ 》 である( ピリ 2・8 )。
ⅲ 誰が、「救い主」に出会うのか ?
15、16節 「・・・ 『 さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。 』 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当て」、20節 「・・・全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と、社会的に顧みられなかった羊飼いたちである。
この世的な物を以って満たされている人々は見向きもしないが、マタイの福音書 5章6節 「義に飢え渇いている者」は出会う。同 14節 「御心にかなう人々」とあるように、神の寵愛に渇く者が出会うのである。
※ ご一緒に救い主との出会いに感謝して聖餐式に臨んだ。
今朝の2017年元旦を聖日として迎えた礼拝は、連講の記事から、シメオンによって預言された 《 マリヤへの祝福の言葉 》 2章34節の聖句に注目して、Message としたい。
その預言は幼子の主が、21節 「八日が満ちて」割礼を受けられて後、22節 「きよめの期間が満ちた時、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った」、生後40日目の神殿でのこと。この預言の言葉の前に、見ておきたい。
今朝の個所で目立つ言葉は、「律法」である。22節 「モーセの律法による」、23節 「主の律法」、24節 「主の律法に・・・と定められたところ」、27節 「律法の慣習を守るために」、39節 「主の律法による定めを」と。ここに深い意義がある。
ガラテヤ人への手紙 3章10節 「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」とは、呪いの下にある私たちの状態。しかし、同 13、14節 「キリストは、私たちのため( 代わり )にのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『 木にかけられる者はすべてのろわれたものである 』 と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、・・・異邦人に及ぶためであり、・・・約束の御霊を受けるため」と。主が律法を完全に守って、身代わりの資格を得られたことによる実現( へブル人への手紙 5章8、9節 「完全な者とされ」 )。
実に、2章28~32節のシメオンの賛歌の根拠がここにある !!
因みに、39節 「彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った」とあるが、この間の出来事について、マタイが詳細に記録している( 東方の博士たちの物語と、ナザレに帰るまでのエジプトでの逃亡期間 )。
興味深いことに、マタイの福音書は、これらの 《 イエスの誕生と幼少期について全て 》 御使いがヨセフに現れて指示された角度からの記録であり、そこに 《 忠実に従ったヨセフの信仰と家族の行動 》 の記録があるのみである。系図においても。
ところがルカに至っては全て、マリヤに向けられている。受胎告知に始まって、その後の行動と系図( 3章23節 ※ 脚注参照 )に及んでも然り。このような意味で、シメオンによる両親への祝福さえ、その究極を ※ 34、35節 「母マリヤに」向けられたものと読むことが出来る。
さて、母マリヤが聴かされた預言とは ?
「ご覧なさい。この子は・・・」と、幼子の主が、やがて救い主としてどのような生涯を送るお方なのか !? その使命とその結果についてであった。
先には ※ 28節で、シメオンが神殿に入って来た幼子の主を目にするや否や、感激の余り「幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った」とあり、29~32節で、「※ 30 私の目があなたの御救いを見たからです」と主を賛美した。その賛美は輝かしくも、主が ※ 32節 「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」というものであった。
ところがこの福音の為 《 幼子と母マリヤには 》 受けるべく定められている過酷で厳しい現実があるとの預言である。
34、35節 新共同訳 「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする為にと定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます― 多くの人の心にある思い【意図】が露わに【暴露】される為です」。
① 幼子と、幼子と向き合うことになる人々との関係。
悲しみの人、病を知る人としての受難の生涯の予告。
② 幼子と母マリヤの関係。
35節 「剣があなたの心さえも刺し貫く」とは、実に、十字架上の主の最期を見届ける日のことであるとは、言うまでもないが、幼子が公的生涯に入られるや否や、直面される日々の受難を見聞きするその都度の経験でもある。
マリヤは、乳飲み子の主を見詰めながら、シメオンが語る言葉をどのように感じただろうか。シメオンは実に「祝福して言った」のだ。あの受胎告知の時の、御使いからの ※ 1章28節 「おめでとう、恵まれた方」、同 30節 「あなたは神から恵みを受けたのです」と同じ言葉。
そのように言われた母マリヤが、「剣があなたの心さえも刺し貫く」とも言われるとは、到底、祝福とは思えない真逆の状態ではないか。
主の存在は、すべての人の生来の肉を扱うので、その肉をそのままにと願う者は反発する( ガラ 5・16~ )。しかし、扱われて痛んだとしてもその肉からの解放を求める者には喜びが。
マリヤの心さえも【思いが露わにされて刺し貫かれる】とは ? 母親として生涯関わりを持たせて頂いたからこその厳しい扱いがある。わが子の「わが神、わが神」と叫ぶ祈りを聞き、自らの呪いをすら代わって受ける苦悩であると知って見る時、予想だにしなかった情的な扱いがある筈。
※ マリヤも肉を剣で刺し貫かれたのだ。わが子との関係を完全に断って、わが子を「わが主」と呼び、贖いをのみ喜ぶことをもって祝福とする信仰。探られてはこの信仰に。
昨年末最後の聖日は、クリスマス記念礼拝として、主のご降誕が、2章10節 詳訳 「すべての民に及ぶ大きな喜びの素晴らしい知らせ」であること、《 それは「すべての民に及ぶ」 ※ 11節 「救い主」としての誕生であるから 》 という福音に注目した。
ⅰ 「救い主」であるとは ?
21節 「幼子はイエスという名で呼ばれることになった」とある名前が、そのご降誕の目的を明確にしている。即ち、マタイの福音書 1章21節 「ご自分の民をその罪から救」うの意。
犯した罪の赦しから始まる 《 罪の力からの解放 》、即ち、罪をもたらす内的腐敗が清められることから来る自由。
ⅱ イエスが罪から救う「救い主」であるしるしは ?
12節 「布にくるまって飼葉おけに・・・」が象徴する貧しさこそ、しるしであると。実に、「十字架の死にまでも従われた」 《 不条理の貧しさ 》 である( ピリ 2・8 )。
ⅲ 誰が、「救い主」に出会うのか ?
15、16節 「・・・ 『 さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。 』 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当て」、20節 「・・・全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と、社会的に顧みられなかった羊飼いたちである。
この世的な物を以って満たされている人々は見向きもしないが、マタイの福音書 5章6節 「義に飢え渇いている者」は出会う。同 14節 「御心にかなう人々」とあるように、神の寵愛に渇く者が出会うのである。
※ ご一緒に救い主との出会いに感謝して聖餐式に臨んだ。
今朝の2017年元旦を聖日として迎えた礼拝は、連講の記事から、シメオンによって預言された 《 マリヤへの祝福の言葉 》 2章34節の聖句に注目して、Message としたい。
その預言は幼子の主が、21節 「八日が満ちて」割礼を受けられて後、22節 「きよめの期間が満ちた時、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った」、生後40日目の神殿でのこと。この預言の言葉の前に、見ておきたい。
今朝の個所で目立つ言葉は、「律法」である。22節 「モーセの律法による」、23節 「主の律法」、24節 「主の律法に・・・と定められたところ」、27節 「律法の慣習を守るために」、39節 「主の律法による定めを」と。ここに深い意義がある。
ガラテヤ人への手紙 3章10節 「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」とは、呪いの下にある私たちの状態。しかし、同 13、14節 「キリストは、私たちのため( 代わり )にのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『 木にかけられる者はすべてのろわれたものである 』 と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、・・・異邦人に及ぶためであり、・・・約束の御霊を受けるため」と。主が律法を完全に守って、身代わりの資格を得られたことによる実現( へブル人への手紙 5章8、9節 「完全な者とされ」 )。
実に、2章28~32節のシメオンの賛歌の根拠がここにある !!
因みに、39節 「彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った」とあるが、この間の出来事について、マタイが詳細に記録している( 東方の博士たちの物語と、ナザレに帰るまでのエジプトでの逃亡期間 )。
興味深いことに、マタイの福音書は、これらの 《 イエスの誕生と幼少期について全て 》 御使いがヨセフに現れて指示された角度からの記録であり、そこに 《 忠実に従ったヨセフの信仰と家族の行動 》 の記録があるのみである。系図においても。
ところがルカに至っては全て、マリヤに向けられている。受胎告知に始まって、その後の行動と系図( 3章23節 ※ 脚注参照 )に及んでも然り。このような意味で、シメオンによる両親への祝福さえ、その究極を ※ 34、35節 「母マリヤに」向けられたものと読むことが出来る。
さて、母マリヤが聴かされた預言とは ?
「ご覧なさい。この子は・・・」と、幼子の主が、やがて救い主としてどのような生涯を送るお方なのか !? その使命とその結果についてであった。
先には ※ 28節で、シメオンが神殿に入って来た幼子の主を目にするや否や、感激の余り「幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った」とあり、29~32節で、「※ 30 私の目があなたの御救いを見たからです」と主を賛美した。その賛美は輝かしくも、主が ※ 32節 「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」というものであった。
ところがこの福音の為 《 幼子と母マリヤには 》 受けるべく定められている過酷で厳しい現実があるとの預言である。
34、35節 新共同訳 「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする為にと定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます― 多くの人の心にある思い【意図】が露わに【暴露】される為です」。
① 幼子と、幼子と向き合うことになる人々との関係。
悲しみの人、病を知る人としての受難の生涯の予告。
② 幼子と母マリヤの関係。
35節 「剣があなたの心さえも刺し貫く」とは、実に、十字架上の主の最期を見届ける日のことであるとは、言うまでもないが、幼子が公的生涯に入られるや否や、直面される日々の受難を見聞きするその都度の経験でもある。
マリヤは、乳飲み子の主を見詰めながら、シメオンが語る言葉をどのように感じただろうか。シメオンは実に「祝福して言った」のだ。あの受胎告知の時の、御使いからの ※ 1章28節 「おめでとう、恵まれた方」、同 30節 「あなたは神から恵みを受けたのです」と同じ言葉。
そのように言われた母マリヤが、「剣があなたの心さえも刺し貫く」とも言われるとは、到底、祝福とは思えない真逆の状態ではないか。
主の存在は、すべての人の生来の肉を扱うので、その肉をそのままにと願う者は反発する( ガラ 5・16~ )。しかし、扱われて痛んだとしてもその肉からの解放を求める者には喜びが。
マリヤの心さえも【思いが露わにされて刺し貫かれる】とは ? 母親として生涯関わりを持たせて頂いたからこその厳しい扱いがある。わが子の「わが神、わが神」と叫ぶ祈りを聞き、自らの呪いをすら代わって受ける苦悩であると知って見る時、予想だにしなかった情的な扱いがある筈。
※ マリヤも肉を剣で刺し貫かれたのだ。わが子との関係を完全に断って、わが子を「わが主」と呼び、贖いをのみ喜ぶことをもって祝福とする信仰。探られてはこの信仰に。
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