クリスマス記念礼拝 『ルカの福音書』 より 8


ルカの福音書2章8節~21節

先週は、主の先駆者ヨハネが荒野で公的奉仕に備えていたのと同時進行で備えていた 《 ヨセフとマリヤ 》 に注目した。
マリヤにおいては、受胎告知直ちに、その日に備えてエリサベツの許に急いだと思い返しつつ、ヨセフに注目。
彼の登場は、1章27節ではマリヤの「いいなずけ」として、ベツレヘム行きの場面では、突如夫として、何事もなかったかのように登場する。しかし、2章5節 「いいなずけの〈 めとった 〉マリヤ ─ 詳訳」と言っている所から、マタイの福音書 1章18~25節に導かれて、ヨセフの苦悩があったのを見た。
ヨセフの、婚約者マリヤが身重になったことが分かった時の苦悩である。どうしても自分以外の周囲の人の存在を認めざるを得なくされた時、マリヤを公的に訴える選択肢もあったが、裏切りを赦し、彼女に生きる道を開こうとした「自分の利益を求めない」愛による行動を。彼も又、マリヤ同様、彼の主との関係には、彼女の不貞の罪も、自らの希望も、世間体をも介入させなかった。彼がその決断をするや否や、20節の主の顕現に与り、潔く従って ※ 24節 「妻を迎え」た経緯である。
マリヤにしても、ヨセフにしても、彼らの前に立ちはだかった試練を通過してのベツレヘム行きだったのだ。
しかも、2章1節の住民登録という「皇帝アウグスト」からの勅令が出た時が、身重の状態。それを摂理と認めて、直線距約120キロの旅路を出掛ける彼らの信仰。更に、7節 「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」と、【山腹の洞穴にある】家畜小屋の飼葉おけに寝かせられる状況での出産。

※ 幾つもの障害とお扱いに従いつつ備えた事実に留意を、と。


今朝は、主のご降誕が、2章10節 詳訳 「すべての民に及ぶ大きな喜びの素晴らしい知らせ」であると、主の御使いから羊飼いたちに伝えられた Message に注目したい。
主のご降誕が 《 大きな喜びの素晴らしい知らせ 》 であると言うのは、主が「すべての民」の ※ 11節 「救い主」としてご降誕されたからである。

① 「救い主」であるとは ?

21節 「幼子はイエスという名で呼ばれることになった」とある名前が、そのご降誕の目的を明確にしている。
マタイの福音書では、イエスの名の意味を、1章21節 「・・・ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と伝えている。
この「ご自分の民」とあるのは、主によって為される宣教の順序を暗示している。創世記 12章1~3節の預言で明白 ⇒ 3節 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」とあるのは、アブラハムの子孫キリストの誕生によって、救いが全世界に及ぶとの預言だからである。ユダヤ人は、全世界が祝福される為に選ばれたのだから。
その祝福こそ、全ての民の罪からの救いである。
この「罪からの救い」について、ヨハネの福音書 8章31~34節から考えたい。「イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『 もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします 』 」に、救いの何なるかが伝えられているから。
信じたというユダヤ人は、主が、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と仰った時、主の言われた救いを理解しなかった。社会的、政治的な意味でしか捉えられず、 “ 自由にするだなんて !! まるで私たちを誰かの奴隷であるかのように言うとは !! とんでもない。誰の奴隷にもなったことがない ” と反論した。それは、自由にすると言われた意味を、正しく理解出来なかったからである。
ところが実際、ローマの支配下に置かれているので、自由ではないにも拘らず、プライドが面白くないとして、「決してだれの奴隷になったことも・・・」と嘯( うそぶ )くのが彼ら。主はその無知と頑なさを知りつつも、その件には触れずに、「自由にする」という意味を教える為に、34節 「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と仰って、罪からの救い、罪から自由になるということだと明言された。
即ち、ローマ人への手紙 7章15節 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」という罪の奴隷状態、苦脳からの解放である。このパウロの苦悩は、パウロが過去の罪( 教会を迫害し、神を冒涜した )を赦されて後、自らが如何に罪に縛られている者であるかを認めさせられて出て来た時のもの。24、25節 「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。・・・ただ神に感謝します」と解放され、救いを経験した。赦しから始まる 《 罪の力からの解放 》、即ち、罪の汚れをきよめて頂き続けることによって、その自由をより確かなものとして行く。

② イエスが「罪から救ってくださる」という、「救い主」であるしるしは ?

12節 「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。人間的には、何という貧しい光景がそこに。
しかし、そこにこそ 《 救い主としてのしるし 》 があると !!
実に、ピリピ人への手紙 2章6~8節がその光景の説明であり、※ 8節 「十字架の死にまでも従われた」貧しさである。死刑にする為という目的で裁判が行われた 《 不条理の貧しさ 》 である。
マタイの福音書 27章27~31節の光景に戦慄する。

③ 誰が、「救い主」に出会うのか ?

15、16節 「・・・ 『 さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。 』 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた」、20節 「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」羊飼いたちが、である。
その当時、社会的に顧みられなかった羊飼いたちの謙虚な姿勢が感動的である。この世的な物を以って満たされている人々には見向きもされないのが、福音であるということではないだろうか ? 14節 「御心にかなう人々」とあるが、神の寵愛に渇く者が、である。マタイの福音書 5章6節 「義に飢え渇いている者」とも。

※ ご一緒に救い主との出会いに感謝して聖餐式に臨みたい。

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