聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 7


ルカの福音書2章1節~7節

先週は64節、自らの不信仰が招いた聾唖状態から遂に解かれたザカリヤが「神をほめたたえ」た時の賛歌に注目した。ザカリヤは、何を以って主を褒め称えたのか !!

ⅰ 68b、69節 「その民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」故に。
先駆けとしてのヨハネの誕生に次いで、ダビデの子孫であるイエスが間もなく誕生しようとしている !! と、感極まった( ~70節 )。その 《 贖いの内容と、人々に及ぼすその力 》 とを思って頂点に達した喜び。その内容の理解は・・・
a. 71節 「この救いはわれらの敵からの・・・救い」、74、75節 「われらを敵の手から救い出し・・・」である。当時の人々の多くが、ローマ帝国からの解放者を待望していた中、ザカリヤの理解が、サタンと暗黒の力からの解放だったとは !!
b. 更に、その救いは、74、75節 「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」。実に、十字架による罪の赦しと罪性の清め、聖霊を満たすことによってと。

ⅱ 救いを確認した時、先駆者となるヨハネを抱きながら、76~79節 「幼子よ・・・」と襟を正さざるを得なくされた故に。
父ザカリヤはその初め、御使いによって ※ 15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」と告げられたが、その召命を厳粛に噛みしめて、重責を理解していた。80節は、父からの私信をヨハネが着実に受け取った証。

※ 神が、ご自身の救いの業を、主を恐れる器方を用いて粛々と進めておられた事実に感動しつつ挑戦としたい、と。


先週、主の先駆者ヨハネの ※ 1章80節 「イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた」という事実に触れました。3章2節には、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」とあるように、ヨハネが公的奉仕に備えるのに、どれ程の緊張感をもって臨んでいたかが伝えられている。
こうして「神のことば」が待望される中、同時進行でその日に備えていた 《 ヨセフとマリヤ 》 の行動があるが、今朝はここに注目したい。
2章4節 「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため・・・」は、二人が結婚に至ってダビデの町へ旅立つまで、彼らが乗り越えなければならなかった幾つものハードルがあったことを暗示している。
マリヤにおいては、御使いの「神にとって不可能なことは一つもありません。1章37節」に、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。 同 38節」と信仰告白して後、直ちに、その日に備える為に、エリサベツの許に急いだと学んでいる。
そしてその時、マリヤ自身で、この受胎告知を婚約者ヨセフに伝えなかったという出方は、彼への最高度の思い遣りであり、賢明な選択だったと。何故なら、人間的レベルで云々すべき内容の話ではなく、恐れ多くも、神ご自身の問題、人知をはるかに超越した出来事と弁( わきま )えていたからである。
誰が説明したからと言って、納得させられる問題ではないとする分別は、彼女の真実な謙虚さによるものだったと。

さて問題の( マリヤからは受胎告知を告げられなかった )婚約者ヨセフの場合について考えてみたい。彼が登場して来るのが、ここ 『 ルカ 』 では、先ずマリヤを紹介する為に、1章27節 「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで」と出ていただけであるが、2章4、5節のベツレヘム行きの場面では、夫として出て来る。
何事もなかったかのように登場して来ているが、「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに」とある表現に、この日を迎えるまでのヨセフの扱いを垣間見る。
マリヤを唯、妻ではなく 《 いいなずけの〈 めとった 〉マリヤ ─ 詳訳 》 と言っている所が、私たちを、マタイの福音書 1章18~25節に連れて行く言い回しであるとして合わせて考えたい。 
そこには、ヨセフの苦悩があった。18節 「ヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とあるが、この時、ヨセフはマリヤが身重になったということが分かったのであって、それが聖霊によってであったことを理解していた訳ではない。「聖霊」によるものだと分かったのであれば、「内密に去らせよう」と考えるどころか、むしろ一緒に重荷を担わなければとの姿勢に出たに違いないからである。19節 「彼女の( 婚約中の )夫ヨセフは、正しい人であって、彼女を公に晒しものにする〈 恥辱を与える〈 面目を失わせる 〉ことを好まないで、そっと〈 密かに 〉離別することに決心した ─ 詳訳」とある限り、自分以外の周囲の人の存在を考えざるを得なくされたと見るべきだろうから。
そうした存在を考えた時に、彼はマリヤを公的な場で訴える選択肢もあったが、ここでは裏切り行為を赦し、彼女に生きる道を開こうとした。「自分の利益を求めない」愛による選択。彼も又、マリヤ同様、彼の主との関係には、彼女の不貞の罪も、自らの希望も、世間体をも介入させない信仰に立っていた。
何と、彼がその決断をするや否や、20節 「・・・主の使いが夢に現れて言った。『 ・・・恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです・・・ 』 」と、ヨセフをとことん扱われて後に、主の顕現があったのだ。ヨセフは、主の命令には潔く従い、24節 「妻を迎え」た。

マリヤにしても、ヨセフにしても、彼らの前に立ちはだかった試練を通過してのベツレヘム行きだったのだ。
しかも、2章1節 「住民登録をせよという勅令」が出された時、既に身重の状態。わが子の誕生がユダヤのベツレヘムだとする 『 ミカ書 』 の預言を知っていたとするならば( ミカ 5・2 )、ベツレヘム行きの為に導きを求めていたと考えられる。
そこに届いた住民登録という勅令は、如何なる事情があろうとも絶対的服従が要求される 《 皇帝アウグストからの勅令 》 である。それを摂理と認めて、直線距離で南へ約120キロの旅路を出掛ける彼らの勇敢な姿勢に感動しないだろうか。
更に、7節 「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」と、【山腹の洞穴にある】家畜小屋の飼葉おけに寝かせられる状況での出産。むしろ宿屋よりも暖かく、安全だったのではと。

※ 全てが主の御翼の下に置かれた摂理に信仰を寄せて、唯、服従を。

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