ルカの福音書1章57節~80節
先週は、マリヤが受胎告知後、自らに託された召命の厳粛さを弁( わきま )え、直ちにエリサベツを訪問したことは、旧約時代から待ち望まれて来た 《 救い主誕生 》 に備える為の最善の選択だったと確認した。その上で、エリサベツと会った時、喜びと感動の余り、神を褒め称えた ※ 46~55節の賛歌から 《 マリヤの神経験 》 に学んだ。
ⅰ 主ご自身を崇め、喜ぶ信仰 !!
46、47節 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」という礼拝の姿勢に見る。
マリヤはその理由として、48節 「目を留めてくださった」、49節 「私に大きなことをしてくださいました」を挙げているが、受けたこと自体を喜ぶのではなく、与えて下さった主ご自身を喜ぶ信仰であったこと。実際マリヤへの恵みは責任重大、慎重さが維持されなければならない重荷 !!
その召命に生きるマリヤが 《 して頂いたこと自体を喜ぶ 》 信仰者でしかなかったならば、その召命の厳しさに直面した時には、到底耐えられないものであった筈。
ⅱ マリヤは、どのようなお方として主を知っていたのか ?
a. 主は、48節 「この卑しいはしため」と自らの卑しさを知り、又、50節 「主を恐れかしこむ者」である限り、最大の関心を寄せ、親身になって関わって下さるお方として。
b. 51~53節 「御腕をもって力強いわざをな」すお方として。
c. 55節 「アブラハムとその子孫に語られたとおり」真実なお方として。テモテへの手紙 第二 2章13節 「彼は常に真実である」 !!
※ 詩篇 9篇10節 「御名を知る者」でありたい、と。
今朝は、ザカリヤが御使いから ※ 1章20節 「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」と宣言されていた日を遂に迎えて、64節 「たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」という記事に注目致します。
『 ルカの福音書 』 の連講を始めるに当たって、この書ならではの特色の一つに 《 賛美と喜びに満ちている 》 ことが挙げられると学んだ。既に、先週は 《 マリヤの賛歌 》 を味わったが、67~79節の 《 ザカリヤの賛歌 》 がその喜びに続いている。
《 マリヤの賛歌 》 では、エリサベツの ※ 44節 「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」との声に感極まって、主に賛美を捧げたように、 《 ザカリヤの賛歌 》 も又、同様。
58節 「近所の人々や親族は・・・彼女( エリサベツ )とともに喜んだ」、65、66節 「そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『 いったいこの子は何になるのでしょう 』 と言った。主の御手が彼とともにあったからである」とあるように、喜びの輪が広がっている。
インマヌエル讃美歌 402番 ああベツレヘムよ ♪ 3節 “ ・・・天より来べしと誰かは知る ” と、ここに、主のご降誕を間近にしつつある喜びのうねりが押し寄せている光景を見るが、悲しいかな !! 世は未だこの事実を知らずにクリスマスを迎えている。
ザカリヤの賛歌は、彼が、不信仰によって招いた聾唖状態での丸一年間を、どれだけ主と密着した関係で過ごしていたかが証されている重厚な信仰告白である。それは、64節 「すると、たちどころに」と口が開かれるや否や、舌が解けてものが言えるようになった時の初めの言葉が、68節 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を」だったからである。
ザカリヤは、何を以って主を褒め称えたのか !!
① 68b、69節 「その民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」故に。
わが子ヨハネの誕生と、マリヤに託された幼子の誕生が、70節 「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおり」に成就して、この世に届けられることになったという劇的な出来事に感動したのだ。
確かに、主ご自身がエマオへの道すがら話されたこと( 24章27節 )。「角」は、旧約聖書中で 《 力 》 を表す象徴的な言葉として使われて来た。先駆けとしてのヨハネの誕生に次いで、ダビデの子孫であるイエスが間もなく誕生しようとしている !! と、感極まった。その 《 贖いの内容と、人々に及ぼすその力 》 とを思って、その喜びは頂点に達した。
a. 71節 「この救いはわれらの敵からの・・・救いである」、74、75節 「われらを敵の手から救い出し・・・」との理解。
当時の大多数の人々が、自分たちの上に君臨するローマ帝国からの解放者を待望していた中で、ザカリヤの「救い」の理解は、サタンと暗黒の力からの解放だったとは !! 使徒の働き 26章18節、エペソ人への手紙 2章2節、コロサイ人への手紙 1章13節。
b. 具体的に 《 どの様な救いであると理解 》 していたのか !!
74、75節 「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」救いを。
黙示録 5章9、10節 「神のために人々を贖い」、「神のために、この人々を王国( 御国の民 )とし、祭司とされました」とある回復を !! 人は神に背いて光を拒み、サタンに隷属して生きる身勝手な道に従った。しかしもう一度、神の方から御子を遣わすことによって、神との交わりへの道を開いて下さった。実に、十字架による 《 罪の赦しと罪性のきよめ 》 を与え、聖霊を満たすことによってである。すべての日、その生涯、主の聖前に立つその日までの約束である。崇高な救いを再認識して感謝を !!
② 76~79節 「幼子よ・・・」と、救いのこの事実を確認した時、「主の前ぶれを」する先駆者として召命を受けたわが子を抱きながら、襟を正さざるを得なくされた故に。
父ザカリヤはその初め、御使いによって ※ 15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」と告げられ、わが子ヨハネへの召命を理解していた。
80節は、父からの私信がヨハネに着実に届けられ、後に彼が献身して主の出現に備えられている証である。
※ 神が、ご自身の救いの業を、主を恐れる器方を用いて粛々と進めておられた事実に感動しつつ、挑戦としたい。
先週は、マリヤが受胎告知後、自らに託された召命の厳粛さを弁( わきま )え、直ちにエリサベツを訪問したことは、旧約時代から待ち望まれて来た 《 救い主誕生 》 に備える為の最善の選択だったと確認した。その上で、エリサベツと会った時、喜びと感動の余り、神を褒め称えた ※ 46~55節の賛歌から 《 マリヤの神経験 》 に学んだ。
ⅰ 主ご自身を崇め、喜ぶ信仰 !!
46、47節 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」という礼拝の姿勢に見る。
マリヤはその理由として、48節 「目を留めてくださった」、49節 「私に大きなことをしてくださいました」を挙げているが、受けたこと自体を喜ぶのではなく、与えて下さった主ご自身を喜ぶ信仰であったこと。実際マリヤへの恵みは責任重大、慎重さが維持されなければならない重荷 !!
その召命に生きるマリヤが 《 して頂いたこと自体を喜ぶ 》 信仰者でしかなかったならば、その召命の厳しさに直面した時には、到底耐えられないものであった筈。
ⅱ マリヤは、どのようなお方として主を知っていたのか ?
a. 主は、48節 「この卑しいはしため」と自らの卑しさを知り、又、50節 「主を恐れかしこむ者」である限り、最大の関心を寄せ、親身になって関わって下さるお方として。
b. 51~53節 「御腕をもって力強いわざをな」すお方として。
c. 55節 「アブラハムとその子孫に語られたとおり」真実なお方として。テモテへの手紙 第二 2章13節 「彼は常に真実である」 !!
※ 詩篇 9篇10節 「御名を知る者」でありたい、と。
今朝は、ザカリヤが御使いから ※ 1章20節 「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します」と宣言されていた日を遂に迎えて、64節 「たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」という記事に注目致します。
『 ルカの福音書 』 の連講を始めるに当たって、この書ならではの特色の一つに 《 賛美と喜びに満ちている 》 ことが挙げられると学んだ。既に、先週は 《 マリヤの賛歌 》 を味わったが、67~79節の 《 ザカリヤの賛歌 》 がその喜びに続いている。
《 マリヤの賛歌 》 では、エリサベツの ※ 44節 「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」との声に感極まって、主に賛美を捧げたように、 《 ザカリヤの賛歌 》 も又、同様。
58節 「近所の人々や親族は・・・彼女( エリサベツ )とともに喜んだ」、65、66節 「そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『 いったいこの子は何になるのでしょう 』 と言った。主の御手が彼とともにあったからである」とあるように、喜びの輪が広がっている。
インマヌエル讃美歌 402番 ああベツレヘムよ ♪ 3節 “ ・・・天より来べしと誰かは知る ” と、ここに、主のご降誕を間近にしつつある喜びのうねりが押し寄せている光景を見るが、悲しいかな !! 世は未だこの事実を知らずにクリスマスを迎えている。
ザカリヤの賛歌は、彼が、不信仰によって招いた聾唖状態での丸一年間を、どれだけ主と密着した関係で過ごしていたかが証されている重厚な信仰告白である。それは、64節 「すると、たちどころに」と口が開かれるや否や、舌が解けてものが言えるようになった時の初めの言葉が、68節 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を」だったからである。
ザカリヤは、何を以って主を褒め称えたのか !!
① 68b、69節 「その民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」故に。
わが子ヨハネの誕生と、マリヤに託された幼子の誕生が、70節 「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおり」に成就して、この世に届けられることになったという劇的な出来事に感動したのだ。
確かに、主ご自身がエマオへの道すがら話されたこと( 24章27節 )。「角」は、旧約聖書中で 《 力 》 を表す象徴的な言葉として使われて来た。先駆けとしてのヨハネの誕生に次いで、ダビデの子孫であるイエスが間もなく誕生しようとしている !! と、感極まった。その 《 贖いの内容と、人々に及ぼすその力 》 とを思って、その喜びは頂点に達した。
a. 71節 「この救いはわれらの敵からの・・・救いである」、74、75節 「われらを敵の手から救い出し・・・」との理解。
当時の大多数の人々が、自分たちの上に君臨するローマ帝国からの解放者を待望していた中で、ザカリヤの「救い」の理解は、サタンと暗黒の力からの解放だったとは !! 使徒の働き 26章18節、エペソ人への手紙 2章2節、コロサイ人への手紙 1章13節。
b. 具体的に 《 どの様な救いであると理解 》 していたのか !!
74、75節 「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」救いを。
黙示録 5章9、10節 「神のために人々を贖い」、「神のために、この人々を王国( 御国の民 )とし、祭司とされました」とある回復を !! 人は神に背いて光を拒み、サタンに隷属して生きる身勝手な道に従った。しかしもう一度、神の方から御子を遣わすことによって、神との交わりへの道を開いて下さった。実に、十字架による 《 罪の赦しと罪性のきよめ 》 を与え、聖霊を満たすことによってである。すべての日、その生涯、主の聖前に立つその日までの約束である。崇高な救いを再認識して感謝を !!
② 76~79節 「幼子よ・・・」と、救いのこの事実を確認した時、「主の前ぶれを」する先駆者として召命を受けたわが子を抱きながら、襟を正さざるを得なくされた故に。
父ザカリヤはその初め、御使いによって ※ 15~17節 「彼は主の御前にすぐれた者となるからです・・・」と告げられ、わが子ヨハネへの召命を理解していた。
80節は、父からの私信がヨハネに着実に届けられ、後に彼が献身して主の出現に備えられている証である。
※ 神が、ご自身の救いの業を、主を恐れる器方を用いて粛々と進めておられた事実に感動しつつ、挑戦としたい。
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