ルカの福音書1章39節~56節
先週から主のご降誕を待ち望む 《 待降節 》 に入り、先回は 《 マリヤへの救い主の受胎告知 》 の記事に導かれました。
主の前触れをする 《 ヨハネの誕生 》 に次いで、前代未聞の召命に、白羽の矢を立てられたマリヤの信仰に注目した。
ⅰ マリヤの ※ 34節 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」に、《 ヨセフのいいなずけとして注意深く結婚の日に備える 》 誠実さと、賢明な決意の現れとして主を恐れる信仰を。
ⅱ 38節 「マリヤは言った。『 ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように 』 」に、主との個人的関係が確立している信仰を。
34節 「どうして・・・」と、人間的には理解し難いとしつつも、一たび、35~37節 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます・・・」とのおことばが伝えられたならば、躊躇逡巡せず、血肉に相談せずに、きっぱりと信仰告白をした 《 マリヤの自立した信仰 》。
救い主を宿すという歴史的一大事は、マリヤの一存では到底返答し難い難題と思われる告知である。
にも拘らずマリヤは、自らを神に明け渡し、神との個人的関係における問題だとして受け止めて、きっぱりと受諾した。神とマリヤとの関係には、婚約者ヨセフも、信頼すべき両親も、世間体も介入する余地がないとするマリヤの信仰。
ガラテヤ人への手紙( 6章14節 )同様の信仰告白。更に、彼女の「主の女奴隷」との自覚も又、パウロの信仰同様( 同 17節 )と。
※ 私たちの主との個人的関係の確立は如何にと、探られた。
今朝は、受胎告知後直ちに、マリヤが※1章40節 「ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」場面に注目を。
私たちは、マリヤの取った行動について、マリヤの主との関係が如何に強固であったかを垣間見る感動的な選択だったと見る !!
受胎告知後マリヤは、婚約者ヨセフを訪ねなかった。こうしたマリヤの行動について、人間的には理解し難いとするかも知れない。しかし、マリヤが受諾した 《 受胎告知 》 が如何に厳粛で、軽々しく口に出来るような性質のものではなかったことを考えれば、むしろ当然だったのだ。単に婚約者との個人的なレベルで云々すべきことではないとの弁( わきま )え、主への畏怖の念から取った行動、それがマリヤのエリサベツ訪問だった。マリヤは、ヨセフに対しては主が責任を取って下さると信じたのだ。マタイの福音書 1章18~20節は、マリヤのその行動が正しかったことを実証する。
マリヤが、56節 「三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った」時に、ヨセフはマリヤが身重になったことを知って悩むことになるが、御使いの顕現によって一切が解消したのだ。主から出たことだからである。
マリヤは、36節 「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です」と伝えられた私信に、どれ程励まされたことか !! そしてマリヤが自らに託された召命の厳粛さを胸に納め、旧約時代から待ち望まれて来た 《 救い主誕生 》 に備える為の準備として、共に、主の召しに与ったエリサベツに会ったことは、最善の選択だった。
今朝は、このような冷静、かつ賢明な行動に出たマリヤが、エリサベツと会った時、喜びと感動の余り、神を褒め称えた ※ 46~55節の賛歌から 《 マリヤの神経験 》 に学びたい。
この賛歌は、エリサベツとマリヤとの会話 《 ヨハネとイエスの誕生との関係性を確認 》 し合った時、その喜びが頂点に達して迸( ほとばし )った !! 何と麗しい光景であることか !!
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いた時、41節 「子が胎内でおどり」、44節 「私の胎内で子どもが喜んでおどりました」とは、後、使徒ヨハネが福音書で伝えている 《 バプテスマのヨハネの告白の中にも見られる関係 》 である。
ヨハネの福音書 3章28~30節 「・・・花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです」。
さて、マリヤの神経験について・・・
① 主ご自身を崇め、喜ぶ信仰 !!
46、47節 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」という礼拝の姿勢に。
マリヤはその理由として、48節 「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」、49節 「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」を挙げているが、この受けたこと自体を喜ぶのではなく、与えて下さった主ご自身を喜ぶ信仰である。
《 何事かして頂いたこと自体を喜ぶ 》 ことと 《 何事かして下さったお方ご自身 》 を喜ぶこととは違うということを知っているだろうか ? 確認しておきたい。
マリヤが、48節 「・・・私をしあわせ者と思うでしょう」、49節 「大きなことを」と言ったのは、確かに御使いが ※ 28節 「おめでとう、恵まれた方」と言われた通り。
しかしマリヤが受け取ることになったその恵みは、実際、途轍もなく恐ろしい程の責任が伴っており、注意深さ、慎重さが求められ、それが維持されなければならない重荷 !!
その召命に生きるマリヤが 《 して頂いたこと自体を喜ぶ 》 信仰者でしかなかったならば、その召命の厳しさに直面した時には、到底耐えられなくなる。何故なら肉は、詩篇 13篇1、2節 「いつまで・・・、いつまで・・・」と嘆く可能性を持っているから。
しかしいつも 《 して下さったお方自身 》 を喜ぶことを知っているならば、主を信頼して待つことが出来る。
② マリヤは、どのようなお方として主を知っていたのか ?
a. 主は、48節 「この卑しいはしため」と自らの卑しさを知り、又、50節 「主を恐れかしこむ者」である限り、最大の関心を寄せ、親身になって関わって下さるお方として。
b. 51~53節 「主は、御腕をもって力強いわざをな」すお方として。アサフは、「誇り高ぶる」者に対する神の扱いに不信感を抱いた時に悩んだが( 詩編 73篇 )、マリヤのこの神理解は、信仰の足を滑らせることから自らを守る。
c. 55節 「アブラハムとその子孫に語られたとおり」真実なお方として。テモテへの手紙 第二 2章13節 「彼は常に真実である」 !!
※ 私たちも、詩篇 9篇10節 「御名を知る者」でありたい。
先週から主のご降誕を待ち望む 《 待降節 》 に入り、先回は 《 マリヤへの救い主の受胎告知 》 の記事に導かれました。
主の前触れをする 《 ヨハネの誕生 》 に次いで、前代未聞の召命に、白羽の矢を立てられたマリヤの信仰に注目した。
ⅰ マリヤの ※ 34節 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」に、《 ヨセフのいいなずけとして注意深く結婚の日に備える 》 誠実さと、賢明な決意の現れとして主を恐れる信仰を。
ⅱ 38節 「マリヤは言った。『 ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように 』 」に、主との個人的関係が確立している信仰を。
34節 「どうして・・・」と、人間的には理解し難いとしつつも、一たび、35~37節 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます・・・」とのおことばが伝えられたならば、躊躇逡巡せず、血肉に相談せずに、きっぱりと信仰告白をした 《 マリヤの自立した信仰 》。
救い主を宿すという歴史的一大事は、マリヤの一存では到底返答し難い難題と思われる告知である。
にも拘らずマリヤは、自らを神に明け渡し、神との個人的関係における問題だとして受け止めて、きっぱりと受諾した。神とマリヤとの関係には、婚約者ヨセフも、信頼すべき両親も、世間体も介入する余地がないとするマリヤの信仰。
ガラテヤ人への手紙( 6章14節 )同様の信仰告白。更に、彼女の「主の女奴隷」との自覚も又、パウロの信仰同様( 同 17節 )と。
※ 私たちの主との個人的関係の確立は如何にと、探られた。
今朝は、受胎告知後直ちに、マリヤが※1章40節 「ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした」場面に注目を。
私たちは、マリヤの取った行動について、マリヤの主との関係が如何に強固であったかを垣間見る感動的な選択だったと見る !!
受胎告知後マリヤは、婚約者ヨセフを訪ねなかった。こうしたマリヤの行動について、人間的には理解し難いとするかも知れない。しかし、マリヤが受諾した 《 受胎告知 》 が如何に厳粛で、軽々しく口に出来るような性質のものではなかったことを考えれば、むしろ当然だったのだ。単に婚約者との個人的なレベルで云々すべきことではないとの弁( わきま )え、主への畏怖の念から取った行動、それがマリヤのエリサベツ訪問だった。マリヤは、ヨセフに対しては主が責任を取って下さると信じたのだ。マタイの福音書 1章18~20節は、マリヤのその行動が正しかったことを実証する。
マリヤが、56節 「三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った」時に、ヨセフはマリヤが身重になったことを知って悩むことになるが、御使いの顕現によって一切が解消したのだ。主から出たことだからである。
マリヤは、36節 「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です」と伝えられた私信に、どれ程励まされたことか !! そしてマリヤが自らに託された召命の厳粛さを胸に納め、旧約時代から待ち望まれて来た 《 救い主誕生 》 に備える為の準備として、共に、主の召しに与ったエリサベツに会ったことは、最善の選択だった。
今朝は、このような冷静、かつ賢明な行動に出たマリヤが、エリサベツと会った時、喜びと感動の余り、神を褒め称えた ※ 46~55節の賛歌から 《 マリヤの神経験 》 に学びたい。
この賛歌は、エリサベツとマリヤとの会話 《 ヨハネとイエスの誕生との関係性を確認 》 し合った時、その喜びが頂点に達して迸( ほとばし )った !! 何と麗しい光景であることか !!
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いた時、41節 「子が胎内でおどり」、44節 「私の胎内で子どもが喜んでおどりました」とは、後、使徒ヨハネが福音書で伝えている 《 バプテスマのヨハネの告白の中にも見られる関係 》 である。
ヨハネの福音書 3章28~30節 「・・・花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです」。
さて、マリヤの神経験について・・・
① 主ご自身を崇め、喜ぶ信仰 !!
46、47節 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」という礼拝の姿勢に。
マリヤはその理由として、48節 「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」、49節 「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました」を挙げているが、この受けたこと自体を喜ぶのではなく、与えて下さった主ご自身を喜ぶ信仰である。
《 何事かして頂いたこと自体を喜ぶ 》 ことと 《 何事かして下さったお方ご自身 》 を喜ぶこととは違うということを知っているだろうか ? 確認しておきたい。
マリヤが、48節 「・・・私をしあわせ者と思うでしょう」、49節 「大きなことを」と言ったのは、確かに御使いが ※ 28節 「おめでとう、恵まれた方」と言われた通り。
しかしマリヤが受け取ることになったその恵みは、実際、途轍もなく恐ろしい程の責任が伴っており、注意深さ、慎重さが求められ、それが維持されなければならない重荷 !!
その召命に生きるマリヤが 《 して頂いたこと自体を喜ぶ 》 信仰者でしかなかったならば、その召命の厳しさに直面した時には、到底耐えられなくなる。何故なら肉は、詩篇 13篇1、2節 「いつまで・・・、いつまで・・・」と嘆く可能性を持っているから。
しかしいつも 《 して下さったお方自身 》 を喜ぶことを知っているならば、主を信頼して待つことが出来る。
② マリヤは、どのようなお方として主を知っていたのか ?
a. 主は、48節 「この卑しいはしため」と自らの卑しさを知り、又、50節 「主を恐れかしこむ者」である限り、最大の関心を寄せ、親身になって関わって下さるお方として。
b. 51~53節 「主は、御腕をもって力強いわざをな」すお方として。アサフは、「誇り高ぶる」者に対する神の扱いに不信感を抱いた時に悩んだが( 詩編 73篇 )、マリヤのこの神理解は、信仰の足を滑らせることから自らを守る。
c. 55節 「アブラハムとその子孫に語られたとおり」真実なお方として。テモテへの手紙 第二 2章13節 「彼は常に真実である」 !!
※ 私たちも、詩篇 9篇10節 「御名を知る者」でありたい。
この記事へのコメント