ルカの福音書1章26節~38節
先週は、父ザカリヤへの告知によって誕生する子「ヨハネ」の ※ 15節 「主の御前にすぐれた者となる」に注目した。
ⅰ 主の御前にすぐれた者となるとは ?
15節b 「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」、即ち、《 聖霊の満たしによって生きること 》。
ヨハネに託された任務は、16、17節 「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」と、マラキ書 4章5、6節のキリスト降誕400年前に預言されていた、主からの特別な召命であった。
但し、この「主の御前にすぐれた者となる」ことでは、ヨハネに限ってのことではなかったと見て襟を正した。主は、マタイの福音書 11章11節 詳訳 「真実に、わたしはあなたがたに告げる。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は起こらなかった。けれども天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と言われた。
ペンテコステの日以来、「聖霊に満たされる」ことになったとき、誰しもが偉大だと言われる状態になるとの宣言だから。特に、自らの罪深さを知った「一番小さい者」こそとは !!
ⅱ その特色は、15節 「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず」に。
エペソ人への手紙 5章18~21節の聖句と共に考えた。お酒の問題に限った事ではなく、この世が提供する物( 神を忘れさせ、神抜きで喜ばせる )全てへの姿勢。
ⅲ その結果は、14節 「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」と、その周囲への祝福となる !!
※ 聖霊に満たされた生活に留意しつつの日々でありたい、と。
今朝から、主のご降誕を待ち望む 《 待降節 》 に入ります。
時宜に適って、連講はザカリヤへの 《 主の先駆者ヨハネ誕生 》 の告知がなされた後、※ 26節 「その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た」とある 《 マリヤへの受胎告知 》 の記事に導かれました。
画期的な時代の幕開けの場面。
創世記 3章15節 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と、主がサタンに宣告されたその日に突入する場面、実は極めて厳粛な場面に、私たちは臨もうとしている。
既に神は御使いによって、主のご降誕に先立つ告知 ※ 1章13~17節 「こわがることはない・・・」と、ザカリヤに協力を持ち掛けた時、18節 「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と、※ 20節 「私のことばを信じなかった」という返答に遭遇された。その為にザカリヤを懇( ねんご )ろに扱い、試みの中で主への信頼を修復し、その召命に応えるようにと彼を備えられた。
さて神が、救い主をこの世に送る( 救い主を人類の歴史に突入させる )のに、どのような方法を以って実現に至らせるのか ? この日の為に神は、旧約聖書で明らかなように、各時代・時代に預言者を立てては民に救いの必要性を迫りながら、用意周到な準備を重ねて来られた。
次の難関は、最も重要な 《 救い主の受胎告知 》 である !!
その前代未聞の召命 《 31節 「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」という受胎告知 》 は、果たして受諾されるのか ? 固唾を呑んで見守られるべき決定的出来事で、神が 《 その白羽の矢を立てられたマリヤ 》 の人となりに注目して、Message としたい。
26、27節 「ガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」とある。
① マリヤの ※ 34節 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」に見る信仰。
この答えは 《 ヨセフのいいなずけとして注意深く結婚の日に備える 》 誠実さと賢明な決意の現れである。いいなずけとなってからの二人の婚約期間は約一年で、結婚同様の拘束力を持ち、ユダヤ社会においてこの間の不貞行為は姦淫と見做されていた中でのこと。
マリヤが仮に、御使いによってどれ程栄誉ある召命に与ると伝えられたとしても、それらについてではなく、先ず、「みごもる」ことを問題視して反応した姿勢に、彼女の純真性を垣間見るではないか。
② 38節 「マリヤは言った。『 ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように 』 」に見る信仰。
マリヤのこの信仰告白に、何を読むべきだろうか !!
34節 「どうして・・・」と、人間的には到底受け入れ難いとしつつも、一たび、35~37節 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます・・・」とのおことばが伝えられたならば、躊躇逡巡せず、血肉に相談せずに、きっぱりと自ら信仰告白した 《 マリヤの自立した信仰 》 に驚く。 いざという時にはいつでも、主の聖前に出る備えが出来ていた ⇒ マタイの福音書 25章4節の 《 花婿を迎える賢い娘の信仰 》 。
救い主を宿すという歴史的一大事を、無名の町ナザレの結婚前の若い娘マリヤによって、ということは実に驚くべきこと。マリヤの夫となるべきヨセフにでもなく、両親にでもない。到底マリヤの一存では、返答し難い難題では ?
にも拘らずマリヤは、自らを神に明け渡し、神との個人的関係における問題だとして受け止めたのだ。神とマリヤとのこの個人的関係には、ヨセフが仮に婚約者として存在し、信頼すべき両親が存在し、未婚の身でありながら身ごもることへの世間の目がどのように反応し、この事実によって被る災難がどのようなものであれ、誰も、何事も、介入する余地がないとするマリヤの信仰なのだ。
ここに、パウロの告白同様の確固たる信仰( ガラテヤ人への手紙 6章14節 )を見る。同時に、その信仰の鍵としてのマリヤの「主の女奴隷」との自覚も又、パウロの信仰同様( 同 17節 )。
※ 私たちの主との個人的関係の確立は如何に ? 38節c 「こうして御使いは彼女から去って行った」に、神の安堵が伝わって来ないだろうか !! 主の重荷に与る者でありたい。
先週は、父ザカリヤへの告知によって誕生する子「ヨハネ」の ※ 15節 「主の御前にすぐれた者となる」に注目した。
ⅰ 主の御前にすぐれた者となるとは ?
15節b 「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」、即ち、《 聖霊の満たしによって生きること 》。
ヨハネに託された任務は、16、17節 「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」と、マラキ書 4章5、6節のキリスト降誕400年前に預言されていた、主からの特別な召命であった。
但し、この「主の御前にすぐれた者となる」ことでは、ヨハネに限ってのことではなかったと見て襟を正した。主は、マタイの福音書 11章11節 詳訳 「真実に、わたしはあなたがたに告げる。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は起こらなかった。けれども天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と言われた。
ペンテコステの日以来、「聖霊に満たされる」ことになったとき、誰しもが偉大だと言われる状態になるとの宣言だから。特に、自らの罪深さを知った「一番小さい者」こそとは !!
ⅱ その特色は、15節 「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず」に。
エペソ人への手紙 5章18~21節の聖句と共に考えた。お酒の問題に限った事ではなく、この世が提供する物( 神を忘れさせ、神抜きで喜ばせる )全てへの姿勢。
ⅲ その結果は、14節 「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」と、その周囲への祝福となる !!
※ 聖霊に満たされた生活に留意しつつの日々でありたい、と。
今朝から、主のご降誕を待ち望む 《 待降節 》 に入ります。
時宜に適って、連講はザカリヤへの 《 主の先駆者ヨハネ誕生 》 の告知がなされた後、※ 26節 「その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た」とある 《 マリヤへの受胎告知 》 の記事に導かれました。
画期的な時代の幕開けの場面。
創世記 3章15節 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と、主がサタンに宣告されたその日に突入する場面、実は極めて厳粛な場面に、私たちは臨もうとしている。
既に神は御使いによって、主のご降誕に先立つ告知 ※ 1章13~17節 「こわがることはない・・・」と、ザカリヤに協力を持ち掛けた時、18節 「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と、※ 20節 「私のことばを信じなかった」という返答に遭遇された。その為にザカリヤを懇( ねんご )ろに扱い、試みの中で主への信頼を修復し、その召命に応えるようにと彼を備えられた。
さて神が、救い主をこの世に送る( 救い主を人類の歴史に突入させる )のに、どのような方法を以って実現に至らせるのか ? この日の為に神は、旧約聖書で明らかなように、各時代・時代に預言者を立てては民に救いの必要性を迫りながら、用意周到な準備を重ねて来られた。
次の難関は、最も重要な 《 救い主の受胎告知 》 である !!
その前代未聞の召命 《 31節 「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」という受胎告知 》 は、果たして受諾されるのか ? 固唾を呑んで見守られるべき決定的出来事で、神が 《 その白羽の矢を立てられたマリヤ 》 の人となりに注目して、Message としたい。
26、27節 「ガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」とある。
① マリヤの ※ 34節 「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」に見る信仰。
この答えは 《 ヨセフのいいなずけとして注意深く結婚の日に備える 》 誠実さと賢明な決意の現れである。いいなずけとなってからの二人の婚約期間は約一年で、結婚同様の拘束力を持ち、ユダヤ社会においてこの間の不貞行為は姦淫と見做されていた中でのこと。
マリヤが仮に、御使いによってどれ程栄誉ある召命に与ると伝えられたとしても、それらについてではなく、先ず、「みごもる」ことを問題視して反応した姿勢に、彼女の純真性を垣間見るではないか。
② 38節 「マリヤは言った。『 ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように 』 」に見る信仰。
マリヤのこの信仰告白に、何を読むべきだろうか !!
34節 「どうして・・・」と、人間的には到底受け入れ難いとしつつも、一たび、35~37節 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます・・・」とのおことばが伝えられたならば、躊躇逡巡せず、血肉に相談せずに、きっぱりと自ら信仰告白した 《 マリヤの自立した信仰 》 に驚く。 いざという時にはいつでも、主の聖前に出る備えが出来ていた ⇒ マタイの福音書 25章4節の 《 花婿を迎える賢い娘の信仰 》 。
救い主を宿すという歴史的一大事を、無名の町ナザレの結婚前の若い娘マリヤによって、ということは実に驚くべきこと。マリヤの夫となるべきヨセフにでもなく、両親にでもない。到底マリヤの一存では、返答し難い難題では ?
にも拘らずマリヤは、自らを神に明け渡し、神との個人的関係における問題だとして受け止めたのだ。神とマリヤとのこの個人的関係には、ヨセフが仮に婚約者として存在し、信頼すべき両親が存在し、未婚の身でありながら身ごもることへの世間の目がどのように反応し、この事実によって被る災難がどのようなものであれ、誰も、何事も、介入する余地がないとするマリヤの信仰なのだ。
ここに、パウロの告白同様の確固たる信仰( ガラテヤ人への手紙 6章14節 )を見る。同時に、その信仰の鍵としてのマリヤの「主の女奴隷」との自覚も又、パウロの信仰同様( 同 17節 )。
※ 私たちの主との個人的関係の確立は如何に ? 38節c 「こうして御使いは彼女から去って行った」に、神の安堵が伝わって来ないだろうか !! 主の重荷に与る者でありたい。
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