聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 3


ルカの福音書1章8節~17節

先週は、順序立てて書き起こされた 《 御使いによるバプテスマのヨハネの誕生告知 》 に際して扱われた父ザカリヤに注目した。

ⅰ ヨハネを委ねられた 《 ザカリヤの人となり 》 について。
6節 「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」とある。
この「落度なく」とは、※ 失敗のないことではなく、責められるところがないという動機の純潔の意で、神を喜ばせようとする真実な目標にある。この「責められるところがない」信仰の歩みを、6節 「神の御前に正し」いと言う。パリサイ人の義は、人の前に正しく見えるだけのもので、決して神の御前には受け入れられるものではなかった。

ⅱ そのザカリヤに主が期待されたこととは ?
13節 「あなたの願い」とは 《 イスラエルの贖われることを願う祈り 》 で、主はこの「願い」の実現の為に、旧約聖書で預言されて来たエリヤとしてのヨハネをあなたに与えると伝えた。ザカリヤは驚きの余り、御使いの告知を信じなかったが、《 ヨハネ誕生の告知は 》 ザカリヤの願いに対する主の誠実さによるもの。主は、ザカリヤの願いを喜び、信任してこの大きな使命の為に、ザカリヤとエリサベツを協力者として選ばれたのだから、この告知を感謝して受け入れることを主は期待した。19、20節からは 《 彼の不信仰への主の悲しみ 》 が伝えられている。

※ 祈りは、その願いが御心に適うのであれば聞かれ、聞かれたときには 《 どの様なことでもお受けしますとの明け渡しの信仰 》 が伴っているべきとの教訓としたい、と。


今朝は、父ザカリヤが御使いによって、※ 1章13節 「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と告知されて誕生することになる「ヨハネ」の、15節 「彼は主の御前にすぐれた者となる」と言われているところに注目したい。

① 主の御前にすぐれた者となるとは ?

その鍵となる言葉は、15節b 「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ・・・」、即ち、《 聖霊の満たしによって生きること 》 を意味する。
ヨハネに託された任務は、誰もが引き受けられるものではなく、ヨハネへの主からの特別な召命である。
その任務は、16、17節 「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです」だから。
このヨハネの出現は、マラキ書 4章5、6節 「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は・・・」と、キリスト降誕400年前に預言され、イスラエルの民の待ち焦がれていたこと。
御使いから「あなたの願いが聞かれたのです。13節」と言われたザカリヤ同様、主を恐れる全ての者たちの祈りだった。その民たちの祈りの答えが、ザカリヤに託されることになったのであり、20節c' 「私のことばは、その時が来れば実現します」というもので、この時を今迎えることになった。

ヨハネのその働きについては、3章1~22節 ※ 2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」と始まる記事の学びに委ねたいと思うが、彼は、主の先駆者としての忠実な生涯を送って、殉教する。
その任務の激しさは、先週宣教会で学んだ 《 疑い ⇒ マタイの福音書 11章2、3節 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と、獄中の極限状態から弟子たちに尋ねさせた 》 質問に明白。
但し、この「主の御前にすぐれた者となる」とは、ヨハネに限ってのことではないことを、主がかつてヨハネを賞賛された時に仰ったことから考えて襟を正したい。
主は、マタイの福音書11章11節 詳訳 「真実に、わたしはあなたがたに告げる。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は起こらなかった。けれども天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と言われたが、聞き流す訳にはいかない大変重大なおことばである。
何故 ? それは、ペンテコステ以来「聖霊に満たされ」ることになったとき、誰しもが偉大だと言われる状態になるとの宣言だから。特に「一番小さい者でも」には留意を !!
パウロは、コリント人への手紙 第一 15章9節 「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」と告白しているが、自らの罪深さを知っている者である程、天の御国で偉大であることを意味している。

② その特色は ?

15節 「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず」という生活に見られるというもの。ぶどう酒とは別に、「強い酒」とあるのは、ぶどう以外の物から製造される如何なる酒も飲まなかったという意味である。
エペソ人への手紙 5章18~21節には、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい・・・」の勧めがある。しばしば耳にする声に、 “ 聖書では、酒を飲んではならないと言ってない。酔わない程度なら良いのでは ? ” がある。しかし飲んで良いのか悪いのかの問題を超越している。酒を飲むことによる喜びではなく、聖霊の満たしによる喜びを経験して行きなさい、何故なら、「そこには放蕩があるから」との勧めである。その勧めを謙虚に受け止める時 “ 飲まない ” とする姿勢が自ずと出て来る。
お酒の問題に限った事ではない。この世的な快楽の象徴としてお酒が取り上げられているだけのこと。この世が提供する物( 神を忘れさせ、神抜きで喜ばせる )全てへの姿勢。

③ その結果は ?

14節 「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます」である。聖霊による喜びは、聖霊に満たされた人だけのものではなく、その周囲への祝福となるとは !!

※ 聖霊に満たされた生活に留意しつつの、日々でありたい。

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