聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 2


ルカの福音書1章5節~25節

先週から新たに、『 ルカの福音書 』 の連講に入り、初回は、今後のみことばを味わって行く上での備えの為に、書かれた目的、執筆時期、ルカならではの特色を学んだ。
『 使徒の働き 』 を学んだ時に、「私たち」とある部分は 《 記者ルカが同行していた 》 と、少し触れていたことだった。
それに従って、ルカがパウロによる第二次伝道旅行の折、聖霊の禁止命令に従いつつ立ち寄ったトロアスから同伴し、その日以来、パウロと生涯の辛苦を共にした人物と学んだ。
その後、第三次伝道旅行を終えて捕らえられたパウロが 《 主からのビジョン・ローマ行き 》 をカイザリヤで待つ二年間、単独行動を取る機会を得たルカは、1章3節 「綿密に調べておりますから」という 『 ルカの福音書 』 の執筆を試みたのではと考えられている。この彼の姿勢があったからこそ、他の福音書では知ることの出来ない記事となって記録されたのだろう。
『 ルカの福音書 』 ならではの独自の記事が収められていることについて、聖書辞典などを参考に簡潔に( 1~8 )に纏めてみた。
( 1 ) 主の先駆者ヨハネの誕生と、キリストの誕生の物語
( 2 ) 福音が異邦人に及ぶことの強調
( 3 ) 失われた者に対する主の関心
( 4 ) 社会的立場の低かった女性に対する主の関心
( 5 ) 富める者と貧しい者との関係に言及
( 6 ) 主が祈られた祈りと、祈りについての教えとたとえ
( 7 ) 聖霊の働きについて顕著で、『 使徒の働き 』 の前の書であること
( 8 ) 賛美と喜びに満ちていること

※ ルカに倣い、互いも又聖書を綿密に学んでいきたい、と。


今朝は、「綿密に調べて」筆を執り始めたその冒頭、御使いによって告知された 《 バプテスマのヨハネの誕生 》 の記事からであるが、このヨハネの誕生に際して扱われたその父、5節 「ザカリヤという祭司」に焦点を合わせて message を。
時代的背景は、5節 「ユダヤの王ヘロデの時に ⇒ B.C.4年」と明記されている。このヘロデとは言うまでもなく、マタイの福音書では、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。 2章2節」と訪ねて来た「東方の博士たち」を迎えたヘロデ大王であるが、ルカは、その博士たちが訪ねる前の出来事から、福音書を書き起こしている。
それこそ、3節で「順序を立てて書いて差し上げるのがよい」として導かれた書に相応しい。
主の誕生前に起こったヨハネの誕生に関する出来事が伝えられていることは、主イエスの先駆者として派遣されたヨハネであることを考える限り、重要な出来事だからである。
この先駆者ヨハネ自身に関しては、来週学ぶこととして、父ザカリヤに注目したい。

① ヨハネを委ねられた 《 ザカリヤの人となり 》 について。

5、6節に妻エリサベツと共に出て来るが、ここに「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」と紹介されている。「戒め」とは、道徳的戒律を意味し、「定め」とは、儀式的律法に関する決まり事を意味している。
この「落度なく」を、詳訳では「責められるところがなく」とある。いつでも私たちは、ここに注目しなければならない。落度がないと言う時には、為すこと全てに失敗がないの意味に考え易い。しかし聖書が私たちに伝えるところは、失敗のないことではなく、責められるところがないという動機の純潔であるとは、常に学んでいるところ。
聖別会のテキスト、トマス・クック著 『 新約のきよめ 』 より 「聖くあるとは過誤がないことではなく、責められるところがないことです。・・・過誤を犯す傾向性は、私たちにつきまとうのです。・・・地上で可能なただ一つの完全は、愛の完全であり、動機と意図の完全です。・・・神は今は、私たちが何をするかということよりも、何をしようとしたかということに目をとめておられるのです。・・・神は結果をご覧になるよりは、意図をご覧になるのです。全き愛は、いつも成功ある結果にあるのではありません。・・・なすことすべてに神を喜ばせようとする真実な目標にあるのです」と学んだことを再度覚えたい。
この「責められるところがない」信仰の歩みを、6節 「神の御前に正し」いと言う。パリサイ人の義は、人の前に正しく見えるだけのもので、決して神の御前には受け入れられるものではなかった。
先週の夕拝の学び ※ マタイの福音書7章22、23節 「・・・不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われたのは、正に、何かをすることに重きを置き、主への愛を完全に無視した人々にであったことで明白。従って、同 5章20節 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら・・・」に注意したい。

② そのザカリヤに主が期待されたこととは ?

10~13節を見ると、祭司の務めに携わり、香をたいていたザカリヤが、突如として現れた主の使いに怯えた時、御使いは「こわがることはない。・・・あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と伝えた。14~17節がその内容であるが、ザカリヤに託される子ヨハネの驚くべき使命の告知である。
この「あなたの願い」について、ある聖書学者によると、18節を見る限り、ザカリヤが男の子を願っていた( サムエル記 第一 1章10、11節のハンナのように )とは考えられず 《 イスラエルの贖われること 》 だったとの指摘がある。ということは、主は、この実現の為に、旧約聖書で預言されて来たエリヤとしてのヨハネをあなたに与えると伝えたのだ。実際、ザカリヤの側からすれば、途轍もなく大それた務めである為、受け入れ難いとしても、人間的には理解出来る。しかし、同情すべき問題ではない !!
何故なら 《 ヨハネの告知は 》 ザカリヤの願いに対する主の誠実さによるものだったからだ。主は、ザカリヤの願いを喜び、信任してこの大きな使命の為に、ザカリヤとエリサベツを協力者として選ばれたのだから。この告知を当然の事のように受け入れることを主は期待した。19、20節からは 《 彼の不信仰への主の悲しみ 》 が伝わって来る。

※ 祈りは、他人任せの姿勢で捧げるべきではない。その願いが御心に適うのであれば 《 どの様なことでもお受けしますとの明け渡しの信仰 》 を伴うべきとの教訓としたい !!

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