聖日礼拝 『使徒の働き』 より 55


使徒の働き28章1節~15節

先週は、アグリッパの前でのパウロの弁明が、26章32節 「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と惜しまれて閉じられ、遂に、27章1節 ※ イタリヤ行きの決定により、カイザリヤを出港してから、28章14節 「こうして、私たちはローマに到着した。」とある、「こうして」の前半三か月の出来事から、パウロの信仰に学んだ。
この前半のローマへの旅には、幾度もの困難がパウロを襲ったが、その状況下でパウロの助言( 27章10節 )が受け入れられなかった( 11節 )為に被った時の彼の信仰に注目した。
21、22節 「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。」に見る落ち着きであるが、23、24節 「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました・・・」に、鍵があると !!

ⅰ 11節 「・・・船長のほうを信用した」百人隊長の故に、20節 「助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」事態を見つつも、主からの直接的なことばが掛けられるまでは、沈黙して主を待つ自分を知る謙虚さ。

ⅱ 25節a’ 「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」と、主を全幅的に信頼する明け渡し。
主からの ※ 23章11節 「ローマでも」との召命に立ち、主のご計画は、嵐・拒絶によっても妨げられないとの信仰があった。

※ ルカの福音書 1章45節 「信じ切った人」の幸いがここにあると。


今朝は、前回に引き続いて、28章14節 「こうして、私たちはローマに到着した。」とある ※ この「こうして」の内容の後半に学んで、Message としたい。
カイザリヤを出帆した船も難船して、27章20節 「助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」が、九死に一生を得て漂流すること三ヶ月、船が ※ 41節 「座礁」する事態になるが、24節 「恐れてはいけません。・・・神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」との御使いの伝言通り、37節 「二百七十六人」全員救出されたと伝えられている( 43節~44節 )。
この救出された人々は、28章1節 「ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。」とあるが、このマルタ島には三ヶ月間( 11節 )留まったことになる。旅の後半、主がどのようにパウロを導かれたのか ?
このマルタ島は現在、40万人程の人口を持ち、キリスト者が98%というキリスト教国となっている。
取りも直さず、今日の実は、この時の寄港によって届けられ、その時に芽生えた信仰が現在にまで続いているという証である。しかも、7節に登場する「島の首長」ポプリオの家が、キリスト教会になったということである。
パウロが寄港した時の様子から見るならば、島ならではの土着の信仰がしっかり根付いていた。4節 「島の人々は・・・ 『 この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ 』 と互いに話し合った。」と、自然の成り行きでその人の善悪を見極めようとする信仰。
14節 「こうして、私たちはローマに到着した。」と言う時、唯、際どいところから助けられたということ以上のこと、即ち、根強い土着の信仰に生きていた 《 島民をすら主に帰属させた 》 という実を結んでのローマ到着だったのだ。
コリント人への手紙 第二 2章14節 「・・・至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」との実際が、このマルタ島においても然りだったのだ。

この結果を見るのに、主による備えがあったことに注目を !!

① 3節 「パウロがひとかかえの柴( しば )をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。」という 《 一匹のまむし 》 の備え。

5節 「しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」と、パウロの信仰が引き出される機会を得た。 ⇒ ルカの福音書 10章19節 「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」とある。
このことは、4節を見る限り、島民が 《 パウロを何と見るのか ? の決め手となる出来事 》 だった。2節には親切な穏やかな島民の性質が見受けられるが、一たび「まむし」が登場することによって、彼らの生活が如何に、迷信に脅かされているものであったかを明るみにした場面である。
ところが、6節 「島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、『 この人は神さまだ 』 と言い出した。」とは !!
この「一匹のまむし」の登場は、偶然のことではなく、実に主は、この小さな「一匹のまむし」をすら備え用いて、ご自身を証する道具として用いられるのだ。

② 7節~8節a 「さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。たまたま【別訳: 時に一時あたかも、正にその時】ポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。」という 《 ポプリオの父の病 》 の備え。

8節b~9節 「そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。」と、ここでも主の働きは機会を得た。偶然によって、ではない。
その結果は、10節 「それで彼らは、私たちを非常に尊敬し、私たちが出帆するときには、私たちに必要な品々を用意してくれた。」とは、先に触れたように、教会の設立と、それに伴う兄弟愛の誕生である。
そのようにして見送られ、一行はローマへの旅の終盤を迎えて、遂に、14節~15節 「こうして、私たちはローマに到着した。・・・神に感謝し、勇気づけられた」のだ。


※ 主はかつて、敵国アッシリヤの救いの為、ヨナを扱われるのに、実物教訓として 《 大きな魚/とうごまの木/一匹の虫/東風 》 を備えられた( ヨナ書 1~2章、4章 )。主は備えをもって、ご自身のご計画を進められるお方であると覚えたい !!

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