使徒の働き25章23節~27節、26章1節、24節~32節
先週は、カイザリヤに護送されたパウロが、24章1節、大祭司アナニヤの執拗な追跡を受けて、ユダヤ総督ペリクスの前に出た時、又しても、24章16節で、「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と明言した、彼の信仰に学んだ。
ⅰ 対自的 : 自らを誰がどう見ようと、唯、福音が運ばれさえすれば、それこそ本望 !! とする明け渡し切った信仰。
5節で 《 ペストそのもの 》 と訴える侮辱に、誇りすら感じて、唯 ※ 14節 「私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認【告白】いたします。」とだけ明言し、むしろその言葉を受けて、ペストの伝染する勢いが「世界中」とする事実を、福音伝播の勢いと重ねて満足し、誇っているかのよう !!
ⅱ 対人的 : 弁明によって総督ペリクスに一方( ひとかた )ならぬ関心を寄せさせ、遂には、ペリクスをして、25節 「恐れを感じ、『 今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう 』 」と言わせた信仰。
パウロは率直に、単刀直入に ※ 25節 「正義と節制とやがて来る審判とを論じ」、彼らの腐敗した私生活にメスを入れ、彼らを恐れさせた。救いが直ぐそこに届くところまで。
27節には、ペリクスが立場を剥奪されたと伝えられているが、「おりを見て、また呼び出そう」と言ったこの「また」という機会が、果たして彼に訪れたのだろうか ?
※ パウロがいつ如何なる時でも、良心的在り方をもって対応したその姿勢を、お互いの在るべき態度としたい、と。
今朝は、カイザリヤに二年間囚人として留置されていたパウロが、〈 ペリクスに代わって総督に着任したばかりのフェストを表敬訪問するというのでやって来た 〉アグリッパ王に引き合わせられることになった場面に注目致します。
その間も、鳴り止まない暗殺団からの訴え( 25章7節 )がある中、パウロは、フェストの冷静な対応( 25章14節~21節 )によって、遂に念願の 《 ローマ行き 》 が決定することになった。
こうしたフェストの説明を受けたアグリッパ王の ※ 25章22節 「私も、その男の話を聞きたいものです」という 《 パウロへの好奇心から 》 対面することになった。
先ず、このアグリッパ王( アグリッパ二世 )に注目して、その場に臨みたい。彼はヘロデ家最後の人物であり、ローマの権力下におけるユダヤの支配者だった。
誕生された主を殺害しようと企んだヘロデ大王の曾孫( ひまご )。バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ・アンテパスの甥、使徒ヤコブを殺害したヘロデ・アグリッパ一世の息子。
24章24節に出て来た〈 フェストの前任者ペリクスの不義の妻 〉ドルシラの兄ということ。しかも、25章23節で一緒に出て来た「ベルニケ」は、実は、妹で、ドルシラとは姉妹関係である。ドルシラは不義の関係でペリクスと結婚し、このベルニケも又、不品行でその名をとどろかせた末、兄アグリッパ二世に身を寄せることになる。しかし犯罪的な近親相姦の罪で噂になり、他の男性と結婚する。ところが又しても、その男性を捨てて、又元の鞘に収まり、兄の許に身を落ち着かせた。こうした背景を抱えて、堂々とパウロの前に出て来たのがアグリッパなのだ。
さて、25章23節 「大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂にはいった。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた」場面に。私たちは何と対照的な光景を目にしていることか !!
一方は、王侯貴族の贅沢きらびやかな装い、虚栄に満ちた身なり。そこに、25章24節 「この人のことです。」と連れて来られたパウロは、「ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴え」られて来たと紹介された囚人である。手錠が掛けられていた( 26章29節 「この鎖」と言っている )が、彼ら富める者たちの目には、何とも見栄えのしない、惨めな、貧相な、気の毒で哀れな者としてしか映らない囚人パウロである。
アグリッパの「私も、その男の話を聞きたいものです」とは、屈辱的な響きのものでしかなく、ここでは娯楽的な見世物のような存在としてでしか迎えられていないのだ。
さて今朝は、この光景が、全く逆転的展開を見るに至ったのを見て、主の活ける事実に主を賛美したい。それは、人間的には錚々( そうそう )たる面々である彼らが、パウロの語る弁明に怖気づいたということによってである。
① パウロは、大胆に自らの経験的事実を力強く証した。
パウロの弁明が ※ 26章2節~23節にまで及んだ時点で、聴くに堪えられなくなったフェストによって ※ 24節 「気が狂っているぞ・・・」と中断されはしたが、逆にパウロの弁明を強烈なものにしただけで、妨げられることにはならなかった。
パウロが言いたかった弁明のエッセンスは、ガラテヤ人への手紙 6章14節 「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ・・・」である。
② パウロの弁明に驚愕したフェストの揶揄( やゆ )を冷静に受け止め、直ちにアグリッパの魂に切り込みを入れる機会として、直接彼に回心を迫るべく、大胆に向き合った。
フェストは、26章24節 「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と突然叫んだが、パウロは微動だにせず、即刻 ※ 25節 「まじめな真理のことばを話しています。」と反撃し、フェストの言葉を逆手にとって透かさず、26節~27節 「王は・・・」と、アグリッパの魂に向かった。アグリッパは、突如として臨んだ質問、確信に満ちたパウロの発言に圧倒されて言った。※ 28節 「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」には、本能的に光を恐れ、それ以上干渉されまいとする防備姿勢が出た。彼は、個人的回心の道を閉ざしつつも、30節~32節では、そのパウロへの敬意を表しているではないか !!
その彼らに対するパウロの ※ 29節 「私が神に願うことは・・・」については、 “ 何と気高い答え !! 魂への熱い心、純粋な礼儀正しさであろう ” とある人は評価している。この裁きの場で、パウロに一目置かざるを得なくされたのだ。
※ 十字架を誇りとする器の幸いに与りたい。
先週は、カイザリヤに護送されたパウロが、24章1節、大祭司アナニヤの執拗な追跡を受けて、ユダヤ総督ペリクスの前に出た時、又しても、24章16節で、「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と明言した、彼の信仰に学んだ。
ⅰ 対自的 : 自らを誰がどう見ようと、唯、福音が運ばれさえすれば、それこそ本望 !! とする明け渡し切った信仰。
5節で 《 ペストそのもの 》 と訴える侮辱に、誇りすら感じて、唯 ※ 14節 「私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認【告白】いたします。」とだけ明言し、むしろその言葉を受けて、ペストの伝染する勢いが「世界中」とする事実を、福音伝播の勢いと重ねて満足し、誇っているかのよう !!
ⅱ 対人的 : 弁明によって総督ペリクスに一方( ひとかた )ならぬ関心を寄せさせ、遂には、ペリクスをして、25節 「恐れを感じ、『 今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう 』 」と言わせた信仰。
パウロは率直に、単刀直入に ※ 25節 「正義と節制とやがて来る審判とを論じ」、彼らの腐敗した私生活にメスを入れ、彼らを恐れさせた。救いが直ぐそこに届くところまで。
27節には、ペリクスが立場を剥奪されたと伝えられているが、「おりを見て、また呼び出そう」と言ったこの「また」という機会が、果たして彼に訪れたのだろうか ?
※ パウロがいつ如何なる時でも、良心的在り方をもって対応したその姿勢を、お互いの在るべき態度としたい、と。
今朝は、カイザリヤに二年間囚人として留置されていたパウロが、〈 ペリクスに代わって総督に着任したばかりのフェストを表敬訪問するというのでやって来た 〉アグリッパ王に引き合わせられることになった場面に注目致します。
その間も、鳴り止まない暗殺団からの訴え( 25章7節 )がある中、パウロは、フェストの冷静な対応( 25章14節~21節 )によって、遂に念願の 《 ローマ行き 》 が決定することになった。
こうしたフェストの説明を受けたアグリッパ王の ※ 25章22節 「私も、その男の話を聞きたいものです」という 《 パウロへの好奇心から 》 対面することになった。
先ず、このアグリッパ王( アグリッパ二世 )に注目して、その場に臨みたい。彼はヘロデ家最後の人物であり、ローマの権力下におけるユダヤの支配者だった。
誕生された主を殺害しようと企んだヘロデ大王の曾孫( ひまご )。バプテスマのヨハネを殺害したヘロデ・アンテパスの甥、使徒ヤコブを殺害したヘロデ・アグリッパ一世の息子。
24章24節に出て来た〈 フェストの前任者ペリクスの不義の妻 〉ドルシラの兄ということ。しかも、25章23節で一緒に出て来た「ベルニケ」は、実は、妹で、ドルシラとは姉妹関係である。ドルシラは不義の関係でペリクスと結婚し、このベルニケも又、不品行でその名をとどろかせた末、兄アグリッパ二世に身を寄せることになる。しかし犯罪的な近親相姦の罪で噂になり、他の男性と結婚する。ところが又しても、その男性を捨てて、又元の鞘に収まり、兄の許に身を落ち着かせた。こうした背景を抱えて、堂々とパウロの前に出て来たのがアグリッパなのだ。
さて、25章23節 「大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂にはいった。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた」場面に。私たちは何と対照的な光景を目にしていることか !!
一方は、王侯貴族の贅沢きらびやかな装い、虚栄に満ちた身なり。そこに、25章24節 「この人のことです。」と連れて来られたパウロは、「ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴え」られて来たと紹介された囚人である。手錠が掛けられていた( 26章29節 「この鎖」と言っている )が、彼ら富める者たちの目には、何とも見栄えのしない、惨めな、貧相な、気の毒で哀れな者としてしか映らない囚人パウロである。
アグリッパの「私も、その男の話を聞きたいものです」とは、屈辱的な響きのものでしかなく、ここでは娯楽的な見世物のような存在としてでしか迎えられていないのだ。
さて今朝は、この光景が、全く逆転的展開を見るに至ったのを見て、主の活ける事実に主を賛美したい。それは、人間的には錚々( そうそう )たる面々である彼らが、パウロの語る弁明に怖気づいたということによってである。
① パウロは、大胆に自らの経験的事実を力強く証した。
パウロの弁明が ※ 26章2節~23節にまで及んだ時点で、聴くに堪えられなくなったフェストによって ※ 24節 「気が狂っているぞ・・・」と中断されはしたが、逆にパウロの弁明を強烈なものにしただけで、妨げられることにはならなかった。
パウロが言いたかった弁明のエッセンスは、ガラテヤ人への手紙 6章14節 「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ・・・」である。
② パウロの弁明に驚愕したフェストの揶揄( やゆ )を冷静に受け止め、直ちにアグリッパの魂に切り込みを入れる機会として、直接彼に回心を迫るべく、大胆に向き合った。
フェストは、26章24節 「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と突然叫んだが、パウロは微動だにせず、即刻 ※ 25節 「まじめな真理のことばを話しています。」と反撃し、フェストの言葉を逆手にとって透かさず、26節~27節 「王は・・・」と、アグリッパの魂に向かった。アグリッパは、突如として臨んだ質問、確信に満ちたパウロの発言に圧倒されて言った。※ 28節 「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」には、本能的に光を恐れ、それ以上干渉されまいとする防備姿勢が出た。彼は、個人的回心の道を閉ざしつつも、30節~32節では、そのパウロへの敬意を表しているではないか !!
その彼らに対するパウロの ※ 29節 「私が神に願うことは・・・」については、 “ 何と気高い答え !! 魂への熱い心、純粋な礼儀正しさであろう ” とある人は評価している。この裁きの場で、パウロに一目置かざるを得なくされたのだ。
※ 十字架を誇りとする器の幸いに与りたい。
この記事へのコメント