聖日礼拝 『使徒の働き』 より 51


使徒の働き24章全

先回は、無秩序な議会から引き出された夜、11節 ※ 主の顕現を受けて、主の指示に向かって動き出した記事に注目した。
パウロへの、主の「ローマでもあかしを」との任命は、12節~15節に見られる、極めて念入りな陰謀計画が敷かれてのことから始まった。パウロに侮辱されたとして激怒した大祭司アナニヤが黒幕となって刺客を雇い、パウロ殺害を企んだ。
事態は彼ら暗殺団の思惑通りには行かなかった。
その展開に、唯一つの事に注目して message を !!
パウロは馬に乗せられ、総勢四百七十人の護衛付きとは !! 命すら落とし兼ねない殉教死一歩手前の状況から一変しての 《 ローマ行き実現 》 の光景は如何にも荘厳である。「わたしの名を運ぶ選びの器」であるパウロ( 9章15節 )が厳重な護衛によって保護されている事実は、パウロが運ぶ 《 主の御名、即ち、福音そのものへの扱いなのだ 》 ということ !!
何という神の権威、人の冒し難き権威を見るではないか !! この 《 人の冒し難き権威 》 と言う時、大祭司アナニヤの憤りによる陰謀と、皇帝礼拝の故に( キリストを礼拝する )キリスト者を目の敵にするローマの軍隊をすら 《 主の御名を運ぶパウロに仕えさせる 》 神の絶対的な主権・権威だということ。
但し、この偉大な神の権威の発動の為に、16節 「パウロの姉妹の子」の水面下での献身的な行動と、27節 「彼がローマ市民であることを知りましたので・・・」に至らせた、パウロの聖霊に満たされた知恵ある行動が用いられたことを覚えたい。

※ ローマ人への手紙 11章33節~36節で、パウロが主を礼拝している頌栄( しょうえい )の言葉をもって、私たちも主への信頼を新たにしたい、と。


今朝は、カイザリヤに護送されたパウロが、又もや、1節 「五日の後」とあるが、叶わなかったパウロ殺害に更なる意欲を燃やす大祭司アナニヤの執拗な追跡を受けて、ユダヤ総督ペリクスの前に出ることになった時のことに注目したい。
先々回、エルサレムでの最高議会の折、パウロが、23章1節 「今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と自らの生活振りについて明言した為、大祭司アナニヤから不法な扱いを受けたことに触れた。
ここ ※ 24章16節でも、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」と、大胆に明言している。それは、この生き方こそ 《 パウロの何を手掛けるにしても、何を何処で語るにしても、それら一切に主を期待出来る姿勢 》 だからである。
聖霊に満たされて生きるとは、こういう事だからである。
今朝も、こうした姿勢がどのような出方に、或いは、向き合う人々にどの様な影響をもたらしているのかに注目したい。

① 対自的 : パウロを誰がどう見ようと、唯、福音が運ばれさえすれば、それこそ本望 !! とする明け渡し切った信仰に。

パウロを総督に告訴した弁護士テルトロの言葉は、5節 「この男は、まるでペストのような存在【詳訳: 全くペストそのもの】で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり・・・」だった。パウロをペスト菌による伝染病そのものに擬( なぞら )えて侮辱する言葉である。 ⇒ ある学者は、翻訳ではこの表現の無礼さを殆んど伝え切れないと言っている。
兎に角テルトロは、パウロの存在の忌まわしさを憎しみの限り、精一杯伝えようとしてのこと。
しかし、10節からパウロが始める弁明には、このことに言及する言葉が何一つない。むしろ、積極的に ※ 14節 「私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認【告白】いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。」とだけ明言し、ペストで良い !! ペストが伝染する勢いが「世界中」とまで言うそれを、福音伝播の勢いと重ねて満足し、誇っているかのようでは !!

② 対人的 : パウロの弁明によって、総督ペリクスに一方( ひとかた )ならぬ関心を寄せさせ、遂には、ペリクスをして、25節 「恐れを感じ、『 今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう 』 」と言わせた信仰に。

パウロのペリクスへの対応には、テルトロがしたお世辞( 2節~3節 )がなく、唯、10節で、裁判への信頼を寄せている事だけを伝え、直ちに本論に入る人間的無駄のなさが印象的。
このペリクスについては、22節 「この道について相当詳しい知識を持っていた」とあるだけに、かなりパウロの語る所に興味を抱いたようだ。24節 「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。」とある。
ペリクスが、パウロから直「キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞」くことになるとは !!
パウロは率直に、単刀直入に ※ 25節 「正義と節制とやがて来る審判とを論じた」のだ。ドルシラは、使徒ヤコブを殺害したヘロデ・アグリッパ一世の娘。彼女が年齢6歳の時のこと。ペテロをも殺害しようとしていたことも、その後、ここカイザリヤで、父が悲劇的な死を遂げた【12章18節~23節】の記憶もあっただろう。今や父が迫害したキリスト者の指導者を前に、関心を寄せない筈がない。24節には、ドルシラがペリクスの妻とあるが、実は、不義の関係でのことだった。ペリクスの私生活は、腐敗していたのだ。
パウロの話は、正に彼らの私生活にメスを入れるものだった。彼が、「恐れを感じ」たとは、何という恵み !! 救いが直ぐそこに届くところだったのだ。しかし、ヨハネの福音書 3章20節 「光を憎み、・・・明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」とは、何という悲劇。
27節を見ると、ペリクスは自らの総督の座をフェストに譲ることになっているのを見る。それは、彼の統治がユダヤ人に対して強圧的だった為、ユダヤ人から皇帝ネロに訴えられ、処罰からは逃れはしたものの、立場を剥奪されることになったのだ。彼の「おりを見て、また呼び出そう」と言ったこの「また」は、果たして訪れたのだろうか ?


※ パウロは二年間、23節 「監禁」状態でカイザリヤに滞在したことになるが、好機を逃す魂に向き合うパウロの心の痛みは如何ばかりだったことか !! 相手の出方如何に拘らず、良心的に生きることこそ急務だと自戒したい。

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